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●1/3世紀も昔の話になるが、儂は南米アンデスの一角を、ひからびた馬鈴薯をかじりながら、ふらふらと旅したことがあった。四千メートルの高地、その暁(あかとき)の彼者誰時(かわたれとき)に、小さな子供たちも含めたインディオの一家が、打ち揃って痩せ畑に向かう姿を何度も見掛けた。日没と共に彼等の一日は終わる。その単純にして美しい光景に、儂はあの小泉さんのように“感動”した。それが切っ掛けというわけでもないのだが、シチーボーイを気取っていた儂が、段階的に出家(?)ヘの道に傾き山賊化し始めたのと時期が重なる。

▲以来ほんのすこしだけど、天然の恵みを率直に享受する生活を覚えた。例えば鈴蘭や瓢箪木の愛らしい実は口にしない方がいいし、例えば白玉子天狗茸や月夜茸や草裏紅茸なども口にしない方がいいのだが、しかしそこら辺にある大抵のものが食糧になるという事実。それをわが手で採取し、手を加え、胃袋に収めることのヨロコビを知ったのである。腹に収める量はごく僅かでこと足りる。生食に向かなければ単純に火を通し、最小限調味することも有りだけど、なるべくいじらない方が面白い。例えば何時でも何処でもグルタミン酸やイノシン酸を絡めて手間を掛け「さあどうだ、まいったか」
というような美的ご馳走とは価値基準を異にしている。美味しいかどうかではなく、上手かどうかでもなく、要するに面白いかどうかが問題なのである。

■道端にあっても、今までは手をのばす気にもならなかった、黄色い粉に被われた馬糞茸(正しくは黄金茸(こがねたけ)という)を、恐る恐る持ち帰り付け焼きにして食べた。ちょっと無気味な外見とは裏腹に、それはそれでそこそこ愉しめたわけだ。


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