1590年徳川家康が江戸に入府して、先ず手がけたのは、飲料水を確保するための神田上水の工事と下総行徳の塩田開発であった。行徳から江戸川、小名木(おなぎ)川から隅田川を経て日本橋へ至る、塩を運ぶ水路が整備された。
行徳の塩浜は、江戸川の河口に広がる三番瀬とよばれる干潟である。遠浅の海を低い堤防で囲んで、干潮時に天日と風で乾いた塩の砂を沼井(ぬい)に集め、海水を注いで鹹水(かんすい―濃い塩水)を採り、釜で塩焚きする。古式入浜塩田といわれる、この時代の太平洋沿岸における典型的な塩づくりである。温暖で干満の差が大きい瀬戸内海沿岸にくらべて、立地に恵まれていなかったが、鹹水を煮つめて塩の結晶を採る塩づくりの技術は高く、行徳は良質な塩の産地として、仙台藩の三陸、石巻などの塩田の範となった。行徳で使われた塩釜は、これまでの丸い土釜や貝釜、灰粘土釜にかわり、石釜の時代に入っていた。それは、板状の花崗岩をまるでタイル張りのように、貝灰、松葉灰、石灰などを苦汁で練り上げた漆喰で継ぎ合せて釜底を作り、吊り鉄を固定して底の表面を焼き、上の小屋組みの渡りに縄で吊った平釜であった。その竈(かまど)は釜屋の土間をV字型に掘り、松葉や薪を使って釜を焚く煙道には、余熱を利用して鹹水を温める「温(ぬるめ)釜」が取り付けられている。石釜は塩焚きに使用すると、一ヶ月くらいで築き替えられたが、良質な塩を大量に採ることができた。
行徳の塩場寺に、俳人芭蕉の「うたがふな潮(うしお)の華も浦の春」と刻まれた潮塚がある。芭蕉は若い頃、伊勢安濃津藩に仕えた料理人「御台所御用人」であったといわれる。釜の炎と沸騰する湯気のなかで、石釜の液表に花びらのように塩の結晶が浮かんでくるのを見て、芭蕉は、塩の花に春を見たのであろう。
元禄期、瀬戸内海沿岸では本格的な入浜式塩田が開発された。それは、沖に石垣の堤防を築いて潮の取り入り口をつくり、碁盤の目のように溝が掘られ、そこに海水を導き、毛細管現象によって砂の表面に海水を浸透させて鹹水を採るという画期的な採鹹(さいかん)方法である。徳川三代将軍・家光(1645)から播州赤穂を与えられた浅野家では、江戸の塩の需要に応えるために、姫路の大塩などから製塩技術者を集めて塩田開発に力を注いだ。この浅野家の三代当主が、江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけ、切腹、お家断絶に遭う浅野内匠頭である。一方、吉良家も古くから塩づくりの盛んな三河湾の吉良の領主であった。赤穂の浅野家が吉良に、その先進的な製塩の秘法を教えなかったことが、吉良の意地悪な仕打ちにあって忍傷事件となった。これが有名な赤穂浪士の討ち入りの「忠臣蔵歌舞伎」に発展したといわれている。
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