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これまで四川の塩、江戸の塩と、塩づくりと食文化、塩にまつわる人々の暮らしに思いを巡らせていて、ふと立ち止まると、百年にわたる専売制が終わり、塩の自由化を迎えた今日、これからの時代が求めるのはどのような塩か、消費者のご期待に応える塩とは…という思いが重なる。それは、新たな塩の価値を問う道程(みちのり)――温故知新の旅であった。これからは、日本の食文化を豊かにする塩の新しい価値を考える旅としたい。

江戸の食文化から学んだことは、至極あたりまえのことのようだが、調理に相応しい塩とは「料理を美味しくする塩」という理(ことわり)である。これを出発点として現代の塩をあらためて見直していくと、江戸時代の美味しい塩という塩の価値観が抜け落ち、今の塩には、美味しさという基準がないことに気づく。「塩はしょっぱいもの」という固定観念か、または、塩は塩化ナトリュウム(NaCl)の結晶だから、どれも同じ塩味だという考えが一般的である。

わが国の塩は、明治三十八年に日露戦争の戦費調達のため、「塩専売法」が公布され、国家財政の税収と安価な輸入塩に対する国内塩業の保護育成という国策によって、塩専売制度が創設された。塩資源に乏しく、古来海水を煮つめて塩を採る方法しかすべがないわが国の塩づくりは、常に経済合理性を追求した品質とコストの解決を至上の課題としてきた歴史がある。

国の塩の買い入れ基準は、これまでの味や白さ、湿り具合、きめ細かな手触りといった塩の評価基準から、塩化ナトリュウムの純度塩は容積から重量へと変更された。塩の評価基準は、塩の純度、白度、重量という単純で合理的なものに置き換えられていった。

そして、世界に負けないコストをめざす製塩技術の開発と度重なる塩業整備により、一段と塩の近代化、工業化が進展したのである。

江戸から昭和初期にいたるまで、塩を煮つめる釜は、石釜や鉄釜による平釜製塩であったが、昭和十年代から徐々に省エネルギー型の真空式蒸発釜に移っていった。これによって、塩の見かけのかさ比重が大きく変化し、塩の結晶は小粒で堅く、塩の辛味がピリッと強い塩になった。もうひとつの大きな変化は、塩田を利用して海水を濃縮していた鹹水(かんすい・濃い塩水)の作り方から、イオン交換膜で塩化ナトリュウムを海水から選択的に抽出して鹹水を採る方法へ全面的に切り替わったことである。

「濃縮鹹水」と「抽出鹹水」のふたつの差異は、ミネラルの組成バランスの違いとなって表れ、塩の味を大きく変化させてきた。たしかに工業的に大量生産された塩は、経済的で効率のよい塩であるが、塩味という点では、塩辛さが強く、塩は「しょっぱいもの」というイメージが定着した。



白身魚の塩煮(マースニー)

沖縄の海を島の人々は“美(ちゅら)の海”と呼んでいる。青く澄んだ珊瑚礁の海にはたくさんの生き物が息づき、この美の海という言葉には、沖縄の人々の豊かな海の恵みへの感謝と誇りがこめられている。温暖な黒潮を“真潮(マース)”といい、そのきれいな海水から採れた伝統的なシママース(島の真塩)は、沖縄の人々の暮らしに深く溶け込んで、沖縄独自の食べものの文化を育んできた。

昭和四十七年の沖縄返還の直後、それまで平釜で塩焚きしたシママースに替わって、本土の専売の塩を使い始めたところ、伝統食品のスクガラス(アイゴの稚魚の塩辛)や豚の塩漬けが傷み、モズクが上手く加工できないという事態が発生、主婦からは、漬物が漬からない、料理の塩加減が難しいといった戸惑いがあった。当時沖縄では突然、塩が変ったため、いたるところでこのような塩騒動が起きたのである。沖縄の人々は、まろやかな平釜塩と塩辛い真空蒸発釜の塩の違いを敏感に判別できたといわれる。そして人々の間からシママース復活の声が高まり、沖縄の味を守る「味の自決権※」を主張する運動へと発展、昭和四十九年に輸入天日塩を原料にした溶解、再結晶する加工塩の製塩が許可された。

そして今日、塩の自由化によって、琉球諸島では、ミネラル豊富な美の海の海水を使い、昔ながらの平釜でじっくり煮詰めて濃縮する、伝統のシママースが復活したのである。

沖縄の料理は塩味がベースで、真塩をいかした多彩な味を創りだしている。塩が絶妙な味をつくる、この美味しさを沖縄では、`アジクーターaという含蓄のある言葉で表現している。単に美味しいというだけではなく、「なんとも言い表せない味わい」のことで、そこに沖縄の食文化のエッセンスがある。※

その原点は、「塩とは、料理をおいしくするもの」という塩の価値観である。

※参照「沖縄の自然塩――シママース」知念隆一氏記事(昭和50年「新栄養」1月号掲載)


著者略歴/昭和14年生まれ。塩問屋の栃木塩業三代目を継ぐ。平成9年、(協)日本塩商理事長に就任。同14年4月、塩の完全自由化に伴い、塩の専門商社をめざして、ジャパンソルト株式会社を設立。社長に就任。


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