先日、博多に出かけた。ここのところ、月に一度くらいのペースで博多には行っているのだけれど、余り博多を訪れている実感はなかった。仕事を消化して、ホテルで寝るだけのことだったからかも知れない。ところが、今回の博多探訪は、博多の水炊きを探ることが目的であった。そんな訳で、久し振りに素顔の博多と博多の味を再発見した感がある。
水炊きは、明治時代の後半に博多料理として誕生して、その後博多の名物となった。 一時期は、博多訪れると、
「さっ、タロウさん水炊きば食べに行まっしょ」
てな具合になったものだが、バブルの時代となり、日本人が贅沢を覚えてしまったようだ。いつの間にか、水炊きをもてなしの御馳走料理から外してしまった。情けないことに、僕はその存在をもすっかり忘れていた程である。と申すのも、水炊きという料理は、意外な程に簡単に作れるからではあるまいか。僕が10歳になる頃(昭和20年代)までは、鶏の水炊きと言えば大御馳走であった。我が家でも、特別な客が来た時だけ鶏をつぶして客をもてなしていたことを思い出す。
現在でも、博多の街中には水炊き料理の老舗が10軒近くは残っていて、それぞれに固定客は保っているとか。しかし、大賑わいとまではいかないらしい。一時期は行列をなしていた水炊き料亭も、昨今はいささか淋しい限りである。世の中は、明らかに贅沢嗜好になってしまったのであろう。テレビや雑誌でアラ料理(クエ。スズキ科ハタ目の魚で、鍋にすると大変おいしい。11月の九州場所から正月にかけて高騰する) を特集すると、博多の名物はアラにとって変わってしまった。博多のフグ料理も、東京などに比べたら半値以下。残念ながら僕だって、水炊きとフグのどちらかをチョイスするとなれば、迷うことなくフグを選んでしまうに違いない。
要するに、高級で間違いなくおいしければ、少々の値段は払っても致し方ないという考え方が、我々日本人の中にいつの間にか生まれてしまった様な気がする。と同時に、家庭でも比較的簡単に出来る料理に、何も高い金を払う必要はないじゃあないか、という考え方も成立する。確かに、水炊きは単純明解な料理である。
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