銀しゃりと云われる白いごはん、そしておこわ(赤飯)か、お餅、僕が一番好きな食べものです。

とうに戦争は終わった。戦後も終わったとどんなに云われても、白米のごはんを見ると、昭和16年(1941年)に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)を思い出す。

戦争が始まってたった3年後の昭和19年(1944年)、僕の生まれた東京はアメリカ空軍の爆撃で危なくなり、子供は強制的に東京に居られないことになった。国民学校(小学校)4年生の僕は先生に引率されて、その年の夏の終わりの夜、上野駅から学童集団疎開列車に乗せられ、信州の上田へ向った。戦争とは子供や母親等、弱いものにとってはつらいものだ。

食べ物が無くなった。東京はもちろん、田舎でも東京からやってきた僕たちのような迷惑な者に食べさせるものは充分にはなかった。学童疎開先の寺の中に造った炊事場に五右門風呂のような釜があった。そこで僕たち30人程と、付添いの先生のごはんを作る。ごはんと云っても、それはこんなものだった。釜へ水を入れ塩を入れて「オモナワ」という名の、岩のようなあまり甘くないまずい芋をザクザク切って入れ、米をパラパラ入れて雑炊を作る。僕らはそれを食べてもまだお腹が空いていた。夕方、炊事をするおばさんが、明日釜を使うので水をはって帰っていく。僕は釜の水の上に浮いてきた、おこげの米を手ですくって食べた。たぶん今だったら犬も食べないだろう。そんな食べ物だけが続いた。

昭和20年(1945年)敗戦、学童疎開も終わった。僕はまだ東京に帰れず母の遠縁の田舎にいた。母は自分の着物を次々に売って米を買った。やっと白いごはんを食べた。

僕は白いごはんを見る度に思う、僕にとって多分死ぬまで戦争も戦後も終わらないだろうということだ。白いごはんに白菜のお新香と熱い味噌汁があったら、僕は平和だ。


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