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豊かな食文化のある国には、これを支える良質な塩の生産地がある。美味しい塩を求めて世界を旅していると、この想いを確信する素晴らしい塩に出会う。フランス料理とフルール・ド・セル(塩の華)、イタリア料理とシチリアの天日塩など国際的評価の高い名塩は、その地の食材を生かし、味を作り出す料理の伝統と食文化の発展に大きな役割を果たしている。塩作りにかける塩職人の知恵や技術が今も生きており、そこには食文化と塩が密接に関りあってきた長い歴史がある。

そのひとつが有名な四川料理という名菜を生み出した蜀の国――四川の岩塩である。初めて中国を訪れたのは、文化大革命が終わった24年前になる。その後、商用を兼ねて天津、広東、江蘇、南京、上海、四川と、中国各地の塩の生産地を訪れたが、なかでも四川は、昔から塩が人々の生活に幅広く関っており、今も歴史や食文化の中に脈々と生き続けている、興味が尽きない地である。


今年の1月、中国の塩都である四川省自貢を訪れるために、四川の成都に向かった。冬の四川は霧が深く、乗り継ぎの北京空港で8時間、霧が晴れるのを待って、やっと深夜に成都に降り立った。翌朝、ホテルの窓を開けると、朝霧に包まれて見渡す限りの段々畑の風景――四川の詩人杜甫や李白が好んで詠んだ詩の世界がある。どこか日本の山国で見られる棚田の景色を連想し、親しみと懐かしさを覚える。

そして、かねてより一度訪れたかった「蜀南竹海」に向かった。見渡す限り生い茂る竹が野山を埋め尽くし、さながら竹の海である。竹林のなかには「翡翠回廊」と呼ばれる道があり、木洩れ陽が歩く人を青く染める。高さ800メートルの山の崖を削って作られた道を歩いていくと、岩に彫られた南宋時代の石仏群が見られる。そこから谷を見下せば、霧にかすんだ棚田が見える。蜀南屈指の名勝地である。帰りがけ、中国の友人に筍料理の店に誘われる。「冬に採れる小さな筍子(スンズ)が最高級品なんですよ。いい時にきましたね」と薦められるまま、次々と筍づくしの料理が食卓を飾る。どれもこれも、これがほんとうに筍でできているのかと感嘆する。メニューには、筍子、冬筍(ドンスン)と名のつく料理が30種もあるという。塩味と香辛料のきいた独特の四川風味を満喫する。湯豆腐もじつに旨い。四川料理の第一人者・陳建民氏は、「筍なしで中国料理を作ってくれと頼んだら、コックはさぞ困ることだろう。主材料として風格をもちながら、副材料としても、肉、魚、貝などに良く合って最高の引き立て役になる。もし筍がなかったら、中華料理も現在のものとは一味違ったものになっていたであろう※」と語っている。

料理人は、調味料を巧みに駆使して多彩な味を創る、アーチストである。特に、筍や豆腐のような淡白な食材を名菜に仕上げるために、四川の塩を使いこなす料理人の技に、四川料理の奥深さを見た思いがする。

※――中央公論社「中国四川料理」


自貢は、中国で唯一“塩都”とよばれる都市である。古代の岩塩層から、地下水に溶解された濃い海水が噴出する“自流井”の世界的な岩塩の産地である。ここで作られた塩を皇帝に献上したことから、自貢の地名がついたといわれる。毎年春節(正月)には、1か月間開催される灯会祭り、伝統的な京劇と雑技からなる川劇が行われる。近年は多数の恐竜の化石が出土し、恐竜の町としても名高い。この自貢には、塩都の名に恥じない名塩がある。清時代の代表的な製塩所「榮海井(えいかいせい)」で作られる塩は、実にまろやかで後味が甘く、角の取れた塩である。榮海井は1988年、中国政府より全国重点文物として指定されている。ここでは昔からの塩作りの伝統を受け継いで、今も作り続けられている。この製塩所内では、湯気が沸き立つ二つの鍋が一組のセットになり、それが幾組も並んでいる。

豆腐化した苦汁を掬う筆者

初めの鍋で、煙道の余熱を利用して塩水を濃縮し、次の平釜で天然ガスを使って煮つめて塩を採っている。最後に取り出された塩の結晶は、竹のスノコの上にある円柱の筒に積み上げられて脱水される。塩の結晶に付着している苦汁が滴り落ちるのを待つのである。

榮海井の製塩で驚いたことは、苦汁を取るのに豆乳を加え、苦汁を吸い込んで茶色に豆腐化したものを丁寧に網で掬う手法である。日本でも白く結晶のつやをだすために豆腐の絞り汁を入れるところもある。豆乳を使って苦汁を取るといった創意とこだわりに、塩職人の塩作りへの熱い思いが伝わってくる。

こうした二千年におよぶ塩作りの伝統が四川料理を支えてきたのだ。中国では昔から、四川の塩は「百味之祖、食肴之将、国之大宝」と言い伝えられてきたのである。


著者略歴/昭和14年生まれ。塩問屋の栃木塩業三代目を継ぐ。平成9年、(協)日本塩商理事長に就任。同14年4月、塩の完全自由化に伴い、塩の専門商社をめざして、ジャパンソルト株式会社を設立。社長に就任。


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