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四川盆地の冬は霧が多く温暖である。しかし、夏は盆地特有の高温多湿で酷暑となる。紀元前に早くも灌漑用水が整備され、米、菜種、大麦や綿、砂糖きびなど、中国屈指の生産量を誇っている。まさしく、諸葛孔明が豊かな“益州”といい、昔から豊かな天然資源に恵まれた地として“天府の国”と云われたのにふさわしい青々とした穀倉地帯である。こうした盆地特有の気候風土から、あの四川料理の特徴であるピリッとした辛さをもつ独特の香辛料と塩味が調和した四川風味が生まれたといわれる。

わが国にも馴染み深い麻婆豆腐や坦坦麺もここ四川生まれである。四川料理のしびれる辛さが、酷暑の季節に食欲を刺激し、発汗をうながす。こうした自然環境から四川の人たちの身体が求めた味にちがいない。これに豊富な食材と伝統的な調理技術が加わって、“天府の国の百菜百味”と称される四川の食文化が醸成されてきたのであろう。


古都のたたずまいをもつ成都の落ち着いた街並みには、いたるところに「小吃」の店が軒を連ねている。ここでは、餃子、小菜、麺類から点心類まで四川の家庭料理を食べることができる。それぞれの専門店は、伝統的な四川の味を大切に守っている。成都に住む知人から「昼は西玉竜で軽く食事しませんか」と誘われ、街路樹に隠れるように佇んでいる小吃の店に入る。

昔の一膳飯屋といった趣の店内は、昼時の人のざわめきとムンムンとした熱気に包まれている。彼は竹海で食べた豆腐がとても美味しかった私の話を覚えていて、すぐに麻婆豆腐を注文する。湯気の立つ赤黒い色をした麻婆豆腐に一瞬ためらっていると、「四川の店の豆板醤は、二年、三年と熟成させたものを使っているので、色は濃い目ですが味はいいですよ」とすすめる。なるほど、硬めの豆腐でつくられた麻婆豆腐を口にすると、深みのある味がして、美味しい。

四川の坦坦麺には汁がなく、挽肉と唐辛子の紅油に麺をからめて食べる。はじめの口当たりは甘いが次第に辛さが口いっぱいに広がる。辛味がスカッとして後に残らない。坦坦麺に汁がないのは、昔は屋台で売られていたので、汁がこぼれないように工夫されたのだという。四川では、坦坦麺や麻婆豆腐が一流の名菜店でも出てくる。「麻・辣」の世界を味わったあとで、蜂蜜の餡入りの団子「頼湯元」がとてもよく合う。四川人は普段の食事でも辛味と甘味を好む。甘い団子を食べながら、ふと、どこかで同じ感覚を体験したような気分がした。昨年の五月、モナコのホテルドパリにあるレストラン「ルイ十五世」で、シロップの上に塩味のバニラアイスクリームを盛ったデザートがでたときのことである。給仕が「甘さとソルトテーストの“味のハーモニー”をお楽しみください」と云った一言を思い浮べた。食の国には、どこか共通した食文化があるものだ。


バラエティ豊かな乾物類――四川省・蜀南竹海にて


四川料理は、単に辛味だけではなく酸味、甘味、苦味、ピリッとした辛味、塩味の六つの味がハーモニーを奏で、料理の色、香りとともに三位一体となっている。元代以来、中央の役人が料理人をつれて赴任したことから、洗練された細やかな味を生み出したといわれる。そのなかで、四川の塩はしっかりした塩味を主張している。塩は、食材の味の輪郭をつくり、塩加減で味はいかようにも変化する、料理の味を演出する黒子の存在であるが、この四川料理では調味料の主役は塩である。塩炒め、燻製、味噌漬、塩漬け、煮込み蒸、塩の水煮など、じつに多彩な料理法がある。とくに、四川の家庭料理に欠かせないのが泡菜である。泡菜は季節の野菜を塩と酒、砂糖、唐辛子などで漬けた漬物で、しっとりとした井塩が使われる。四川の人々が、泡菜に四川の塩しか使わないわけは、天日塩はマグネシュウムが強く、好みの塩味に漬からないからだという。四川は昔から塩が人々の食生活に深く関っており、豊かな食文化が生きつづけている。自貢の地下には、今も二億五千年前の太古の海が、広大な岩塩層となって眠っており、一千メートルの地下から汲み上げられた苦味のないかん水(濃い塩水)が採れ、“素性の良いかん水”が職人の伝統的な技によって、洗練された塩に仕上げられる。

塩の知識と使い方を熟知した四川の料理人は、まさに「塩のソムリエ」である。


著者略歴/昭和14年生まれ。塩問屋の栃木塩業三代目を継ぐ。平成9年、(協)日本塩商理事長に就任。同14年4月、塩の完全自由化に伴い、塩の専門商社をめざして、ジャパンソルト株式会社を設立。社長に就任。


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