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2億5000年前の太古の海が永い眠りから目覚めるように、地下深くの岩塩層が伏流水に溶け、かん水(濃い塩水)になって地上に現れた。2000年余の歴史をもつ四川の自流井は、素性のよい良質な岩塩と高度な技術の採掘方法で知られ、中国の岩塩を代表する産地である。

19世紀初頭、四川の自流井を求めて、4000キロにわたる長大な揚子江をヨットでさかのぼり、四川を訪れたひとりの採鉱技術者がいた。英国人アップクラフトである。念願の自流井を発見したとき、彼は次のように報告している。「ヨットが揚子江の峡谷から出たとたん、河岸に一群の藁葺きの掘立小屋が立ち並び、蒸気と煙の雲がたなびいていた。それぞれ天辺に不格好なガタガタいう車輪をもった井戸からかん水を汲み上げて、竹の「塩水管」でかん水を煮つめる小屋に送られる…。毎年、水面があがる季節が近づくと解体され、明くる年に組み立てられる。さらに1ヶ月上流にさかのぼらないと中心的な塩の町にはたどり着けなかった。自流井の塩都自貢は大きな繁栄した町だ。(※1)」




霧に包まれた四川の棚田や長江のそそり立つ峡谷のパノラマを見ていると、蜀の国、四川は“山を砕き、岩を削る”といった人間が自然に挑む凄さをひしひしと感じる。戦国時代末期に巴蜀を領土とした秦の孝文王(紀元前225年)のころ、蜀郡の太守に赴任した李氷(リーピン)は、氾濫する岷江(ピンコウ)を改修するため、四川盆地の治水工事に挑んだ。成都の北西50キロの灌県にある世界遺産「都江堰(トコウエン)」が、その代表的な治水工事である。これは水路を開削して流れを分ける離堆を築く工事である。民間の伝説では、李氷がこの治水にあたって龍を降し、祖先伝来の開山大斧を三度振るって玉塁山を開削したと語り伝えられている。

李氷は、潅漑により干ばつや水害から田畑を守り、実り豊かな天府の国の礎を築いた恩人として、四川の民から農業の神様に祀られた。

初めて四川を訪れたとき、井鉱塩は李氷の土木工事で偶然に見つけられたのではないかと想像し、中国の知人は「それが史実なら、大発見ですね」と真面目とも冗談ともつかない顔で応えたのを覚えている。今回、塩都自貢の塩業歴史博物館を訪れた折、昔の深井戸を掘る道具を展示した一角に李氷の胸像を見つけたのである。そこには、なんと! 「李氷は四川の塩の開拓者」と書かれているではないか。その系譜には、彼が自流井の採鉱技術のパイオニアとして井鉱塩の開拓に力を注いだ史実が記されていた。農業の神様である李氷はまた「塩の神様」でもあったのだ。この発見に心が躍る思いがした。




ヨーロッパで19世紀のころ岩塩のソリューション・マイニング(溶解・採鉱法)に成功したが、中国の四川では今からすでに2000年前に、鉄の矢尻と藤の蔓と竹管を使って地下600メートルの岩塩層からかん水を汲み上げていた。1835年には、この技術で1001.42メートルの深さまで掘削された記録があり、ヨーロッパの技術者は、自流井の掘削技術に驚嘆した。これを可能にしたのは、戦国時代の鉄器文明の発達があり、かん水を煮つめる鉄釜の出現が製塩の増産をもたらしたと考えられる。当時の掘削は、竹で括った重さ100キロ以上もある鉄のドリルを使って掘られ、採鉱夫たちが梃子の上でリズムをつけ、藤の蔓を編んだロープを上げ下げして地中深く掘っていく。かん水のある岩塩層に到達すると、櫓の脇に取り付けられた巻上げ機を牛が引いて、長い竹管に入れて引き上げる。これらの井戸は同時に天然のガスを産出しており、竹管で遠く離れた小屋に送って煮つめ用の釜の燃料に使われていた。このボーリング技術は、干し上がった井戸に真水を注入して岩塩を溶かし、かん水を汲み上げる技術にも発展し、後に石油のボーリングに応用された。自貢の掘削技術が、いかに高いレベルであったかを物語っている。

現代では、竹から鋳鉄製に代わった塩水管が、自流井の源泉「長山塩鉱」から、延々と70キロ先にある自貢市の近代的な製塩所にかん水を送っている。ふと、アップクラフトが見たという場所は、何処だったのだろうかという想いが駆け巡る。それは、たぶん古代の塩竈の遺跡があった白帝城の川べりではなかったのか…と。塩を巡る旅をしながら、このような歴史のドラマを想像し、思わぬ史実を発見するのも旅の楽しみのひとつである。

※1「塩の世界史」RP・マルソール


著者略歴/昭和14年生まれ。塩問屋の栃木塩業三代目を継ぐ。平成9年、(協)日本塩商理事長に就任。同14年4月、塩の完全自由化に伴い、塩の専門商社をめざして、ジャパンソルト株式会社を設立。社長に就任。


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