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お得意先の老舗の漬物屋のご主人の話では、昔は地元でいろいろな品種の野菜が作付けされていたが、そのほとんどが姿を消している。白菜も昔は漬けると柔らかく甘さがのったものだったが、今の白菜は、緑色の見栄えがよく、鍋物にはいいが、漬物には向いていない。なんとかして、伝統的な地場野菜を復活させて、あの美味しい漬物を作りたいと考えている。ついては、先代が使っていた“かます”に入った塩田の塩を使ってみたい。今の塩に比べて、手で握るとキュッとしまる、まろやかな塩味だったように思う。子供の頃、夏になるとよくキュウリにつけて食べた、あの塩は「あたりがやわらかな塩だったなあ」と追憶しておられた。そこで私は日本の塩作りの話をさせていただくことになった。

地球上の自然界には、塩は岩塩、湖塩、海水の天日塩のかたちでほぼ無尽蔵に存在する。岩塩は地中から採鉱(マイニング)され、太陽と風で自然に出来た天日塩・湖塩は収穫(ハーベスト)される。いずれも自然の恵みである。

しかし、わが国では、自然の恵みである岩塩も湖塩、天日塩も産出しない。海からの豊富な塩資源はあるが、雨が多く、乾季がないため、天日塩が採れず、昔からわが国では、海水を濃縮し煮詰めて塩を採ってきた。海水には約3%の塩分が含まれているが、この海水から塩を採るのに、多くの手間と時間、そして膨大な燃料を必要とした。

古代縄文・弥生時代は、海水を素焼きの製塩土器で煮詰める「直煮」で塩を採り、また、海藻に塩水をかけ、干して焼いた灰を海水で溶かし、そのうわ水を煮詰めて塩を採る「藻塩焼」と呼ばれる塩作りが奈良時代には行われていた。中世の「揚浜式塩田」は、海水を砂地にまいて水分を蒸発させ、乾いた砂に海水を注いで鹹水(濃い塩水)を作り、土釜や石釜で煮詰めて塩を採っていたが、やがて16世紀ごろには、潮の干満の差を利用して遠浅の浜に海水を引き込む「入浜式塩田」に発達していった。

そして戦後、ポンプで海水を汲み上げ、高所から竹の枝でできた枝条架に注いで、太陽と風で濃縮する「流下式塩田」による製塩が主流となった。昭和47年、塩業近代化措置法によって、全国の塩田を廃止し、イオン交換膜法による製塩法に大転換された。この時から日本の塩作りは、それまでの農耕的な一次産業の製塩法からイオン交換膜方式の製塩法に構造転換し、二次産業へ大きく変革したのである。


三代広重「播磨国赤穂塩浜之図」

今も昔も、日本の塩づくりの基本は、海水を濃縮して鹹水をつくる「採鹹」と、それを煮詰めて塩の結晶を作る「煎ごう」という2つの工程で塩が作られる。そして2つの製塩工程の技術がそれぞれ改良され、発展進化して今に至っている。老舗のご主人のいう塩田時代の塩とは、たぶん昭和30年代から40年代の「流下式塩田」の塩であったと思われる。この時代の塩は藁叺に入った「白塩」であったと思う。この塩と今使われている塩との大きな違いは、塩田で海水を濃縮して濃い塩水を採る方法から、イオン交換膜で、海水の中に溶けている多くのミネラルの中からナトリウムと塩素を膜を通して抽出し、濃い塩水を作る方法に代わった。海水に含まれる全てのミネラルをそのまま残して水分を蒸発させる濃縮法と、必要なミネラルを抽出する方法の違いが、塩の性質、ミネラル組成の違いを作り、味にも影響を与えている。日本の美味しい塩は、美しい海から採れるミネラルバランスの良い組成、そして微妙な塩加減のできる、最適な形状や、粒の大小などのさまざまなファクターが複合してできあがる。

なかでも調理の味の決め手となるのは、塩加減である。イタリアに、「美味しい料理を作るには3人の人間が必要だ。オリーブはおおらかな人に、ビネガー(酢)はけちけちとした人に、塩は賢い人にまかせろ」という古い諺がある。オリーブはケチってはいけない。ビネガーは入れ過ぎると食べられない。微妙な塩加減の難しさを喩えたものである。伝統的な平釜で作られた塩は、今の真空式の釜でできる塩に比べて、かさ比重(塩の質重量)が小さく、塩辛さが約半分のため、デリケートなさじ加減ができる塩であった。大量生産される経済的な今の塩は、小粒で塩の辛さが強く、少しの量でも味が大きく変わる。調理の味付けが難しい塩だといえよう。

漬物の権威で宇都宮大学におられた前田先生と塩談義した折、先生が「今の塩は、昔の塩より重くなっている。昔のものより重くなっているのは、糠と塩だ。その違いを一番よく知っているのは、漬物屋である」と話しておられたのを思い起こした。


著者略歴/昭和14年生まれ。塩問屋の栃木塩業三代目を継ぐ。平成9年、(協)日本塩商理事長に就任。同14年4月、塩の完全自由化に伴い、塩の専門商社をめざして、ジャパンソルト株式会社を設立。社長に就任。


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