長い間昵懇にしていただいた、今は亡き吉兆の御主人・湯木貞一老が、お茶事をなされた時のことである。割山椒の向付に残った加減酢を、直では飲みにくい向付から、引き盃に移して召し上がったのは、何日か催した茶事の中で、遠州の家元が唯一人であった、といった話を『暮らしの手帖』に連載されていた「吉兆つれづれ話し」に書かれていたので、吉兆さんは、御自分の料理を、いかにお客が楽しんで味わうかを、陰ながら窺っていらしたのだ、と知ったのである。

それは、唯単に、人の動作を観察するということでなく、自分の料理に対する、料理人としての心入れが、そうさせたと、思われたのである。常日頃から、食べる人、客の立場から、料理というものを見つめていたからこそ、相手の反応が気になっていたのだと、感じたわけである。

向付の味付けは、茶会席においては最初の、いわゆる料理らしい料理という、主役として味わうもので、料理人と客との出会いの重要な役目を担い、その味付けには特に気を入れて調味されるので、私は向付の加減酢などが、これこそ“味の味”であると思っている。

生前、吉兆さんと御一緒に食事をすると、どんな時でもぜったいに食べ残さない。例えば刺身のつまなどもである。私は目の当たりにこの様子を見て、この方は常の人ではない、と感じ入ったものであった。心を召し上がっていたのである。

吉兆さんは長いこと、茶の湯に親しんでおられた。茶の心も“相手を思いやる”ことが根本にあり、全てがその心によってなされているわけで、料理の心と相通じることになる。両方に精通されこの心を求め、それを具現化されたのであられた。

いつもにこやかで、柔らかな対応振りは、思いやる心によって培われてきた積み重ねが、自然と現れたということで、伝統を受け継ぐ技術と精神性とが一体となり、そこに吉兆さんの持つ“味”の、奥深い“味”が宿っていたのだと確信している。


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