7





江戸開府四百年。今都内の東京国立博物館や江戸東京博物館など各所では、江戸時代を回顧する催物で賑っている。東京国立博物館の一角にある平成館において、九月まで「江戸を掘る」をテーマに江戸の遺跡発掘品を展示、そのなかに「焼塩壷」が出展されているというので上野にでかけた。この焼塩壷は、徳川家とゆかりの深い上野寛永寺の寺域における発掘調査の際に、かわらや陶磁器類に混じって発見されたものである。湯飲みほどの素焼きの壷に粗塩を入れて、もう一度窯で焼き上げた壷焼塩は、苦味が飛んで繊細な塩味がする、江戸期の洗練された塩職人の技と知恵が結実した究極の塩である。今の時代に忽然と姿を現した焼塩壷を眺めていると、手間ひまかけて壷焼塩を作った塩職人の熱い思いが直に伝わってくるようだ。


江戸時代の塩づくりは、三百年の歴史を通して、入浜式塩田と平釜による製塩法が完成した時代だといわれる。江戸初期に、それまで人力で潮水を汲み上げていた揚浜式に替わって、全国各地の内海や干潟で、潮の干満の差を利用した入浜式塩田が盛んに開発され、江戸開府にともない行徳の塩浜でも塩焚きが行われていた。なかでも、気候、地形の立地条件に恵まれた瀬戸内海沿岸で入浜式塩田が発達、いわゆる「十州塩田」と呼ばれる長門、周防、安芸、備中、備後、備前、播磨、阿波、讃岐、伊予の塩田は日本の一大製塩地となった。

そして江戸や大坂の都市が栄えるにつれ、全国の米、酒、味噌醤油、海産物など、さまざまな物産が流通、塩の消費量も増大し、江戸末期には、瀬戸内海沿岸の塩田では、全国の産塩量四百七十万石のうち九割もの塩が生産され、ここから塩廻船によって、江戸、大坂を中心に全国各地へ大量に運ばれた。

当時の塩は、海水を濃縮して平釜で煮つめ、ほどよいにがり(ミネラル)を含んだ状態で塩の結晶を竹のざるに採り、じっくり時間をかけてにがりを切って仕上げられる。この“若焚き”した上質な塩を真塩といい、再度、濃縮海水を加えて苦汁と合わせて煮つめたものを差塩と呼んだ。真塩は大坂から江戸にいたる東海道沿いの都市部に好まれ、塩角のある辛い塩の差塩は塩廻船で主に東北に運ばれた。播州赤穂の差塩が米沢では約十倍の値がついたといわれる。塩を産する沿岸沿いの各藩では、塩は藩の財政を賄う貴重な産品として、明治になるまで藩の専売制が布かれていた。



江戸は人口が百万人を超えた大都市であった。職人の街、江戸の朝は、納豆、豆腐、蜆売りの売り声で始まり、天秤棒をかついだ行商人、「棒手振」が、塩や味噌、魚、野菜を売り歩く、賑やかな朝であった。江戸の街には、寿し、そば、天ぷら、鰻屋、居酒屋が軒を並べ、料亭、茶屋が賑い、鰻屋だけでも三百軒を超えていたといわれ、江戸では多彩な外食文化が栄えた。一日二食から朝昼晩の三食の食習慣が定着して、現代の食のかたちが完成した時代でもあった。

江戸の食文化の成熟にともない、塩も洗練されたものになった。料理のプロである板前は、塩の振り加減によって甘塩、強塩、紙塩、化粧塩と、食材の味を活かす塩の使い方に精通し、料理の用途によって真塩を煮立てて卵の殻や卵白でアクをとり、水塩として吸い物に使ったり、真塩を溶かして煮つめ直し、再結晶させてサラッとした軽い塩味にするなど、さまざまな繊細な塩味を工夫した。江戸の庶民は、手塩皿に真塩を盛って副食に、居酒屋では杉の升に塩をのせて粋に升酒を飲む。きっと、まろやかな旨い塩であったに違いない。

そして、江戸期の塩職人の研ぎ澄まされた技と知恵が収斂した究極の塩が「壷焼塩」であった。平釜で塩焚きした粗塩を細かく石臼で挽いて素焼きの器にいれ、窯で二昼夜以上、手間ひまかけて高温で焼成させることによって洗練された焼塩に仕上がる。焼塩壷が城跡や大名、貴族、豪商の屋敷跡などの上流階級の遺跡や高級料亭の跡からしか、出土していないことから、江戸時代の壷焼塩は、非常に高価で貴重なものであったと推測される。江戸の上流家庭では、宴会の塩焼きの鯛を食べるときに食卓塩として壷焼塩を使ったといわれ、安政元年の瓦版には、幕府が黒船で来日したペリーを接待した宴会の二の膳にそれが描かれている。

また、塩をふりかけに利用されたのは、この焼塩の発明からだと言われており、壷焼塩が世に出てから、その普及品として胡麻やしそを混ぜ、「胡麻塩」や「しそ塩」の形でふりかけとなったのがそのルーツといわれる。

(*)学陽書房発刊「ふりかけ」


著者略歴/昭和14年生まれ。塩問屋の栃木塩業三代目を継ぐ。平成9年、(協)日本塩商理事長に就任。同14年4月、塩の完全自由化に伴い、塩の専門商社をめざして、ジャパンソルト株式会社を設立。社長に就任。


Copyright (C) 2002-2003 idea.co. All rights reserved.