江戸は人口が百万人を超えた大都市であった。職人の街、江戸の朝は、納豆、豆腐、蜆売りの売り声で始まり、天秤棒をかついだ行商人、「棒手振」が、塩や味噌、魚、野菜を売り歩く、賑やかな朝であった。江戸の街には、寿し、そば、天ぷら、鰻屋、居酒屋が軒を並べ、料亭、茶屋が賑い、鰻屋だけでも三百軒を超えていたといわれ、江戸では多彩な外食文化が栄えた。一日二食から朝昼晩の三食の食習慣が定着して、現代の食のかたちが完成した時代でもあった。
江戸の食文化の成熟にともない、塩も洗練されたものになった。料理のプロである板前は、塩の振り加減によって甘塩、強塩、紙塩、化粧塩と、食材の味を活かす塩の使い方に精通し、料理の用途によって真塩を煮立てて卵の殻や卵白でアクをとり、水塩として吸い物に使ったり、真塩を溶かして煮つめ直し、再結晶させてサラッとした軽い塩味にするなど、さまざまな繊細な塩味を工夫した。江戸の庶民は、手塩皿に真塩を盛って副食に、居酒屋では杉の升に塩をのせて粋に升酒を飲む。きっと、まろやかな旨い塩であったに違いない。
そして、江戸期の塩職人の研ぎ澄まされた技と知恵が収斂した究極の塩が「壷焼塩」であった。平釜で塩焚きした粗塩を細かく石臼で挽いて素焼きの器にいれ、窯で二昼夜以上、手間ひまかけて高温で焼成させることによって洗練された焼塩に仕上がる。焼塩壷が城跡や大名、貴族、豪商の屋敷跡などの上流階級の遺跡や高級料亭の跡からしか、出土していないことから、江戸時代の壷焼塩は、非常に高価で貴重なものであったと推測される。江戸の上流家庭では、宴会の塩焼きの鯛を食べるときに食卓塩として壷焼塩を使ったといわれ、安政元年の瓦版には、幕府が黒船で来日したペリーを接待した宴会の二の膳にそれが描かれている。
また、塩をふりかけに利用されたのは、この焼塩の発明からだと言われており、壷焼塩が世に出てから、その普及品として胡麻やしそを混ぜ、「胡麻塩」や「しそ塩」の形でふりかけとなったのがそのルーツといわれる。
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