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●「いただきます」も「ごちそうさまでした」もステキな言葉だと思う。習慣的に「さあ食うぞ」と宣言し「ああ食った食った」と言うだけってこともあるけれど、それでも、まあ、悪くない。だが人として初心に還り感謝の気持ちがこもると、俄然その言葉に重みが増してくる。ガキの頃は単純に、それは両親や“お百姓さん”に対する感謝の言葉だと思っていたけれど、老いて漸く、それだけではないことに気付いた。

▲テレビに映る食の風景を見ると「いただきます」の時に胸の前で合掌する人が多い。儂が育った環境や周辺には無いかたちなので、見るたびにフシギな気がする。地域的な特性か、身分によるのか、宗教なのか、お行儀の流派なのか判らず、人様に訊けぬまま実は独り悩んでいるのだ。序でに書くのだが、神社風景を観察すると、二拍の後の掌を合わせたまま首を垂れ、拝む人が多いことに気付く。どうでもいいけれどナーンかちょっと変?

■山に入るとき、下山したとき、祠を見掛けたとき、神々しい眺めに接したときなど……いつしか自然に拍手拝礼あるいは合掌する習慣が身に付いた。不自然な〈二礼二拍手〉ではなく、自己流に気分で二拍か三拍か四拍……その前か後に礼が一回。礼をするだけ、拍手だけのこともある。時には四股も踏むけれどこれは単なるストレッチの一環だ。十字を切ったり五体投地を試たことは、まだ無い。山歩きが生活の一部となってから、山自体が一つの生き物であることを悟り、また山の幸を自らの手で得る(自らの手で生命を絶ち腹におさめてしまう)ことに痛みも覚えてから、「いただきます」の裏に敬虔な気持ちが芽生えた。

(つづく)


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