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●魔女の家

冷蔵庫の中は魔女の押入。中はハコやビンだらけ。何がはいっているのか、わからない。奥から見慣れない箱を引っぱり出すと、すっかり霜がついた古い煮込みが出てきたり、袋の中から枯れたハーブがコンニチワをしたりする。

「これ何?」

「さあ? 覚えてないわ」

は毎度のこと。きれいな空き瓶にちょっと残ったドレッシングや、凝ったお料理をつくったときのソースをストックするのは、よくやることだけど、さて、それが何かわからなくなるのも、おきまりだ。

とうとう、3Mのテープに中身を書いて貼ることにした。

でも、ラベルの名前が尋常じゃない。今日取り出したのは「猫のスープ」という瓶。タヌキ汁でない、猫汁? まさか。その中身は、チキンブロスで、ちゃんとチキンのガラでとったストックではなく、猫用にチキンの胸肉を一枚湯がいた茹で汁だ。捨ててはもったいないから、野菜を煮たり、お昼の簡単なスープ用にとってある。

「これ、誤解の元ね。知らない人が見たらびっくりするかも」

「誤解のタネはもっとあるわよ。『四匹のネズミのパイ』だって不気味じゃない?」

うちでそう呼ぶのは、もちろんネズミの肉ではなく(!)アミ風のアップルパイで、フルに名前を書けば「枯葉のアップルパイ、四匹のネズミ付き」となる。パイの上を全部覆うのでなく、菱形に切ったパイ皮を七、八枚、秋の枯葉をかたどって載せ、間からリンゴが覗くスタイル。その上にパイ種でつくったネズミをちょこんと。耳はアーモンド、目はカルヴァドスに漬けたレーズン、シッポはヴァーミセリ(鳥の巣風に小さく丸めた種類)。アミが猫のリュリュのバースデイに作ったパイだから、ネズミを載せた。残念ながら猫は食べなかったけれど。

うちには「おいしいネコパイ」というのもある。パーティ料理の一つで、茹で玉子を四つつなげて挽肉の中に詰め、外側をパイ皮でくるりと巻いたパイの名。ネコぐらいの大きさになり、パイにリボン状に皮を巻いてアクセントをつけると、出来上がりはシマのマーマレイド・キャットみたいだ。

ご承知のように、お料理には個人の名前をつけたものもある。帝国ホテルのシャリアピン・ステーキは、ステーキ好きだが歯のわるい彼のために、シェフが工夫したひと皿が気に入られ、ついにホテルの定番になったという。作曲家のロッシーニはフォアグラが大好きだったから、オムレット・ロッシーニと言えばフォアグラを使ったオムレツ。

マダム・デュバリーのオムレツは、ルイ一五世の愛妾の名から。カリフラワー好きの王のために彼女が屋敷で栽培し、料理に生かしたからだが、一七、八世紀は、いまなら平凡な野菜が稀少だった。じゃがいもの花が、当時のフランス宮廷で貴婦人の胸元の飾りにもてはやされたと、服装の歴史にあった。

でもたいていの料理は、ただ中身がわかる程度の命名で「鳥胸肉パセリ包み」「ロシア風子牛」「チキン・ポットパイ」……処方箋みたい。でも好きな呼び名をつけると料理が楽しくなる。うちには「ボーン・タヌキ城」や「アルマンゾ」と呼ぶのがある。前者はこげ茶の太ったパンプディング、後者は「大草原」シリーズにあるアルマンゾの牧場の冬の料理で、リンゴと玉ネギとベーコンのグラタン。




ネコはきょとん、4匹のねずみパイ


●住所にも名前をつける 

料理の名前に釣られて注文し、期待はずれが起こるのは、旅先の常。スペインで「アルバ公爵夫人のサラダ」を頼んだ姉は、平凡なサラダにがっかり。イスタンブールの「アナトリアン・スープ」も名前負けで、娘は失望した。

どこの家庭にも、得意料理や創作料理がある。それを平凡にシチュウとか野菜のカレーなんて呼ぶのをやめて、あなただけの名にしてみる。田舎風シチュウだったら「ローラのシチュウ」とか。「野菜のカレー」は私だったら、入れたハーブの出所に因んで「グランマ・カレー」なんて呼びそうだ。

自分で名前をつけるのは、すばらしい権利、もっと生かそう。子供やペットの名前が、もし番号だったら囚人だし、バラや星の命名も、創作者や発見者の権利である。名前をつけることによって、そのモノには個性が与えられ、いのちが吹き込まれる。

お料理の名は平凡なひと皿をおいしくするし、キカイも名前でイキイキし、かわいがる気が起きる。うちの冷蔵庫はハービィ、ディロンギのオーヴンはキャンデローロ。長野オリンピックのフィギュアのシングルスのヒーローの名だ。

海洋ジャーナリストの小林則子さんのアドレスには、数字のあとに大文字のRがついている。 

「珍しいアドレスね」

「私がつけたのよ。何もないと面白くないから」

Rは、彼女のヨットRIB号の頭文字からきているわけで、けろりと言われて、なるほど国際的とはこれだ、と開眼した。私の住処には私が好みの名をつければいいんだ! たとえばイギリス人は家に名前をつける。イチイ荘とか、チェスナット・グローヴとか。ハウス・ネイムというもので、フォトナム&メイスンのITショッピングには、アドレスに「ハウス・ネイム」を書く欄があるくらいだ。

うちはネコの家だから、永年ネコをつけたかったが、英語のCATには悪い意味もあるからキャットハウスでは、怪しげだ。ついに最近キャット・スクゥエアを思いついて、それを名乗ることにした。

自分の住処の名前で、個人に権利がないと思いこんでいるのがおかしい一方、集合住宅だと勝手気ままなのも変だ。私の家は松濤の隣町だが、周りのアパートメント(「マンション」は日本英語)は松濤コートとか、松濤グランドとか名乗っている。

「松濤プラザはどこです?」クルマに訊かれた。

「さあ? 松濤はあっちの方角よ」

遠くを教えたら、なんと、うちの隣にできた二軒共同住宅の名だった。でもここは松濤じゃない!

「これじゃ、うちも犬寺別院とか猫屋敷とか大庄屋とか、名乗れるわね」 娘が言った。


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