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●野も山も川も海も、すべての自然は誰もが必要なだけ取りだせる「神様から授かった巨大な食糧倉庫である」と縄文の人々は理解していた。それ故(今時のお金お金人間とは違って)自然環境とそのサイクルを大事にする精神も行き届いていた。「豊かさ」ってきっとそんな時代のことなんだろう。

▲生きものに手を下すのだから、彼らはそれを「苛める」という言葉で表わした。山をほっつき歩いて、儂も「黒い大きな食糧」とは二十五回程ばったりご対面している。だがそれを苛めたことはないし逆に苛められたこともない。何度も口にしたことはあるけど、それは人様が苛めたものを山里でお裾分けいただいただけだ。儂は脂身のところが好きだし、干した胆のうも(体に効くのかどうか定かではないけれど)爪の先程を舌の上で転がした時のほろ苦さも悪くない。縄文人は彼らを「大きな風呂敷に肉や薬を包んで持ってきてくれる」と表現した。もちろん風呂敷自体もファッションやインテリアに有効だ。一見奇天烈なベア・セレモニーも、あれは仔熊を人の子同様に育て、大御馳走で歓待して気分よく神の国へ帰ってもらう。そして「また遊びにきてくれますように」と願う、壮大な「ごちそうさま」のご挨拶なのであった。

■昔見た映画で、家出少女が川畔で捕らえた野兎を泣き泣き捌くシーンがあった。タイトルも内容も覚えていないのにそのシーンだけが鮮明に甦る。兎でも鶏でも魚でも、ぴんぴん生きているやつを自分の手で捌いて食べてみる――今時の少年少女もそんな経験を積む機会があるといい。心から「すまん・ありがとう・ごっつあんです」と言えるように。殺生は辛くても、神様がそう仕組んだのだから仕方がない。

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