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楽しく食べることを日々心がけているけれど、これが案外むずかしい。レストランで、キッチンの出入り口近いテーブルに座らされたら、うるさくてかなわない。自分の家では、やれ食べようというときに長電話の主がかけてくることもある。

食卓についたとたんにかかってくる電話は、たいていろくでもないと、予測がつく。我慢して応対して、あとで不機嫌になるより、即座に率直に言うに限る。

「わるいけど、いま食事中なのよ」
「あ、わるい! あとでかけ直すわ」

というのは、勘のいいひと。三秒ですむ。あいにくと、これは少数派だ。たいてい未練たっぷりに続けたがる。しかも巧みに不愉快な声に切り替えて。わるいのはおまえだ、というトーンにする。

「あ、そー。旅行のこと訊きたかったのよ」(なぜいまじゃいけないの? たかが食事でしょ)
「あとでかけるのじゃだめ? 冷めちゃうから」
「あなたのところ、いつだったか、トルコ行ったでしょ? どういうルートで、どこに泊まったか、訊きたいの。あまり高いんじゃいやだし」

三秒ですむことに二十秒かけて、電話で他人を困らせるひとは、頭がわるいか、鈍いのか? すべてはかけ直す電話で話せばいい。緊急の話題じゃないのだ。その間にパスタは伸びるし、ステーキは冷える、ソースは固くなる。踏ん切りの悪さは、男女の性別に関係ない。男でのろいひとも多い。

「あー、あのキカイのことだけど、なんて名前だっけ、最近買ったあのキカイね、もう少しくわしく訊きたいと思って」
「わかったわ、あとでかけて」
言葉はやわらかく、でも断固、切るしかない。

最近は、電話の妨害に新手が加わった。ケータイの脅威だ。私の家では、その種のものは、玄関に置いてあり、食事とは無関係だ。問題は、食卓につくひとが、ケータイマニアの場合。つまりそれは、私のあずかり知らなかった、いまの日本の家庭風景を、私の家に持ち込む人なのだった。

パソコンマニアのマック君が、夜の食事どき一緒だった。私の新しいe-Macをケアしていたのだ。私はキャンドルに灯をともして、声をかけた。

「お食事よ」

行儀よく、彼ともう一人が降りてきて、席についた。四人の食卓である。さあ、ローストチキンをカットしよう、というタイミングに、彼は首から下げたケータイを取り上げ、カチカチたたき出した。ほかの三人は何事? と目を見張った。

「何なの?」(みんなが待っているのに)
「え、友達からメールがきたんで、返事しちゃいます」

特に行儀がわるいコでもないのに、何だ、このマナーは!? 彼はじきケータイから手を離した。ケータイがだらりと首からぶら下がった。やれやれ。私はチキンを切り分けはじめた。また彼は首のケータイを取り上げた。カチカチカチ。送ると、じっと画面をにらんでいる。私はそろそろ我慢の限界だ。

「どうしたの?」
「会社の仲間に、会社をやめようかどうしようか、って相談されてるんで」
「じゃ、返事はあとでもいいんでしょ。お料理が冷めるわ。みんな待ってるのよ。食べましょう」

彼はやっとあきらめた。私はもうこのオトコはうちの食卓につけまいと決めた。



食事はタイミングが大事、 料理ができたらすぐ食べなくちゃ



目の前で食べるマック君を眺めながら、彼の家庭風景を思い描いた。そういえば彼は言ったっけ。

「ぼく、寝室でなんか寝ませんよ。こたつにはいってパソコンとメールして、夜中すぎまでそうやってて、そのまま寝ちゃうんです。パジャマなんか着たことない。ティシャツのまんま」

それは夫婦別々という、日本の典型的な家庭なのかも。食事もめちゃくちゃらしいことを話していた。

「うちにはバターも味醂も味噌もないんです。女房は塩、胡椒、マーガリンしか使わない。ほかの味はわからないんです」
「じゃ、食べたいものは自分でやるの?」
「子供は、ぼくの料理のほうがおいしいってよろこぶんです。ハンバーグつくってやったり」

妻が調味料を買わなければ自分で買えばいいのに、というのは事情を知らない他人の類推。買いそろえて、おいしい食事を作って家庭を立て直す気力が、多くのオトコにはないのかもしれない。ケセラセラの気分なのだろう。その救いが、多分、仲間と交わすケータイのメールであり、パソコンのチャットなのだ。

その数日後、朝日新聞の生活欄に、食事どきのケータイの記事が載った。家庭の食卓で、半数の子供が、食べながらメールしているという。親はそれに対して、何も言わず放置しているのは、寛容な振りをしたいからか? マック君の家庭と、新聞の家庭像が重なった。

その記事によると、一家そろっての食事が「ほぼ毎日」はたった十五%、「週に一〜二日」のみが四十七%で最多というから、日本の家庭はまるで一家離散状態じゃないか、と思う。

食事も、以前は母親と子供がいて、父親が不在だったのが、いまは子供が毎日塾で不在、〈お届けマック〉を夕食に食べる。家にいる母親も「これじゃつまらないわ」と外食すれば、家庭はもうないに等しい。たまに家族一緒の食卓がケータイのメールでは、家族の会話なんか、まるでいらない。会話の代わりは、液晶大画面のテレビかもしれない。

動物の食事と文明人の食事の違いは、会話にある。食事をより楽しくし、食卓を団欒の場にするのは、食卓につく人々でわけあう話題、交わすコミュニケーションだ。それは親が子供に日々の食事を通して躾ける、大事な文化である。

私はティーンエイジャーのとき、食卓で友達二人だけの会話に夢中になって、父親にきつく注意されたことを忘れない。

「食卓では、みながわかることを話しなさい。自分たちだけの話題はダメです」


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