目の前で食べるマック君を眺めながら、彼の家庭風景を思い描いた。そういえば彼は言ったっけ。
「ぼく、寝室でなんか寝ませんよ。こたつにはいってパソコンとメールして、夜中すぎまでそうやってて、そのまま寝ちゃうんです。パジャマなんか着たことない。ティシャツのまんま」
それは夫婦別々という、日本の典型的な家庭なのかも。食事もめちゃくちゃらしいことを話していた。
「うちにはバターも味醂も味噌もないんです。女房は塩、胡椒、マーガリンしか使わない。ほかの味はわからないんです」
「じゃ、食べたいものは自分でやるの?」
「子供は、ぼくの料理のほうがおいしいってよろこぶんです。ハンバーグつくってやったり」
妻が調味料を買わなければ自分で買えばいいのに、というのは事情を知らない他人の類推。買いそろえて、おいしい食事を作って家庭を立て直す気力が、多くのオトコにはないのかもしれない。ケセラセラの気分なのだろう。その救いが、多分、仲間と交わすケータイのメールであり、パソコンのチャットなのだ。
その数日後、朝日新聞の生活欄に、食事どきのケータイの記事が載った。家庭の食卓で、半数の子供が、食べながらメールしているという。親はそれに対して、何も言わず放置しているのは、寛容な振りをしたいからか? マック君の家庭と、新聞の家庭像が重なった。
その記事によると、一家そろっての食事が「ほぼ毎日」はたった十五%、「週に一〜二日」のみが四十七%で最多というから、日本の家庭はまるで一家離散状態じゃないか、と思う。
食事も、以前は母親と子供がいて、父親が不在だったのが、いまは子供が毎日塾で不在、〈お届けマック〉を夕食に食べる。家にいる母親も「これじゃつまらないわ」と外食すれば、家庭はもうないに等しい。たまに家族一緒の食卓がケータイのメールでは、家族の会話なんか、まるでいらない。会話の代わりは、液晶大画面のテレビかもしれない。
動物の食事と文明人の食事の違いは、会話にある。食事をより楽しくし、食卓を団欒の場にするのは、食卓につく人々でわけあう話題、交わすコミュニケーションだ。それは親が子供に日々の食事を通して躾ける、大事な文化である。
私はティーンエイジャーのとき、食卓で友達二人だけの会話に夢中になって、父親にきつく注意されたことを忘れない。
「食卓では、みながわかることを話しなさい。自分たちだけの話題はダメです」
|