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ゴールデンウィークは東京でのんびりするのが好きだ。お休みはうれしいけど、自由業なら好き好んで混むときにでかけなくてもいい。混んだ道路と駅や空港のテレビを見ると「うちにいてよかった」ホッとする。なぜ、もっとお休みを分散して、好きなときに取れないのだろう?

フランス人をうらやましいと思うのは、彼らは一年にたっぷりのお休みがあることだ。夏のヴァカンスは完全に一か月。その他に年に二回、十日ずつのお休みを取る。法律で決まっている。日本のゴールデンウィークみたいに一斉の休みでないから、混みあわない。友達のリンダは、夫と犬とパリに暮らす働く女。最近も、六月に十日休みを取ると言った。

「日本じゃ考えられないわ、そんな幸運」
「働く身にはうれしいけど、経営者は大変かもよ」
「問題はお金と行く場所ね」
「そうなの! だから十日間のお休みは、パリでのんびりしてることもあるのよ」

そう。行く場所と費用は、いつも私たちの悩みの種だ。田舎に住む人は、休みには都会で華やかさを味わいたく、都会ニンゲンは田舎の緑に憧れる。普 段の暮らしと反対のものが欲しいのだ。爽やかな空気、ほほをなでる風、鳥の声。しかもおいしい食事があり、気持ちいい寝場所があり……。そんなシャングリラ(桃源郷)はどこにあるのか?

でも、数年前、私はその答えを見つけた。東京からそう遠くない能登半島。関西からはさらに近い。地図を拡げると、その昔パーシヴァル・ロウェルが「西の海に突き出している奇妙な形の半島」と呼んだ姿がある。彼は地図上の形とNOTOの音に惹きつけられて、一八八九年、辺境、能登の国に旅をする。

彼の本の影響もあって、私は能登半島が好きだった。奥能登には美しい海岸があり、ひなびた漁村がある。金沢にはたびたび行っても、あるいは観光地、輪島は見ても、この細長い半島の奥まで足を伸ばす人は多くない。だからこそシャングリラが残っているのだ。

金沢の古い友達に案内されて、娘とそこを訪れたのは、さくらも散って、もみじの緑が燃えたつ数年まえの春。海岸沿いの珠洲の町から里山へ、細い道を車でたどると、ぱっと雀のお宿が現れる。

白壁と褐色の木組みの、日本の民家の造り。石畳の広い玄関のまえに犬が寝そべり、正面の壁に赤い実の山帰来の大きな束。威圧的にならず、西洋の百姓家のような明るさが漂う。それが私の「湯宿さか本」との出会いだった。

ご存知の方もあるだろう。インターネットで引くと癒しの宿、隠れ宿などと紹介されている。部屋にテレビがない、冷蔵庫もない、クーラーもないと、隠者風に書いてあるけど、私の印象はちがった。

さか本のおそばは、おつゆの味もすばらしい



板敷きの廊下を歩き、四つしかない清々しいお座敷を見せてもらい、洗面所の前が外とツーツーの吹き抜けになっているのに驚き、みずみずしい緑に輝く竹林を眺めるお風呂場に感心し、わざと隙間をつけた渡り廊下の板張りを歩き――そう、この宿を見て驚いたのは、「何も無い」どころか、「ほんとうの贅沢」があることだった。簡素な素顔の下の本物志向である。娘も呟いた。

「ここって、お寺の清々しさと、西洋の合理性と清潔感があるわね」

日本家屋だから、庭に向かう窓は天井から床までの大きなガラスだが、これがすべてペアガラスだ。簀の子張りの洗面所は、京都の有次で誂えた銅の洗面器が並び、有松絞りの手ぬぐいの藍色が映える。トイレットはトートーの最高級が備えられ、色はボルドーで華やかだ。寝具は綿の王様、シーアイランド・コットンの純白とブルーのとりあわせ。

坂本新一郎、このひとが宿の主人。坊主アタマのやせた男で、美意識と天才的な味覚の持ち主とひと目で感じた。しかも家族全員が、犬のハチとクまで、宿の仕事にめいめいの持ち分をもって働いている。家族ぐるみのお泊まり処、食べ処である。

宿の主人であり、料理人として采配をふるう新ちゃんは、そば打ちの名人。私はここで出されたザルに感動。「すぐ召し上がってください」の一言もいい。
タイミングは食のいのちだ。土地の新鮮で自然な素材を生かしたお料理は、田舎っぽさに媚びることなく、お寺の清浄さと、茶道の簡素さと、京都の美学をあわせもった、すっきりした味と心憎い演出――

赤い漆の蓋物に懐紙を折って、そこにふたひらの焙ったワカメ。かりっと香ばしいイシルの焼きむすびは妻がにぎる。自家製がんもどきは揚げた甘エビも入った凝った中身で「おばば」こと、お母さんの掌サイズ。筍のはさみ揚げは甘エビを摺りおろして入れてある、個性的なひと皿だ。

単純に見える品を最高の味で出すほどむずかしいことはなく、これをやってのけたのが、いまは無い四谷の料亭〈丸梅〉の女将だった。丸梅の精神を、この宿に見る気がした。飾り立てるのはごまかしが効く。品数を増やすのは、質を落とせば容易い。それを抑えて、最高と信じるものだけを差し出すのが、店の心意気だ。それを汲まなければ、行った甲斐がない。

いまどきの宿は「この値段で夜は二十三品もつく」といった宣伝をして臆面もない。お客のほうも「金を出したからには、わがまま放題するぞ」というケチな了見に傾きやすい。でも私たちが欲しいのは品数でなく、気持ちをこめてつくられた味なのだ。

料理屋、宿、ホテル―― 客商売は、銭かね勘定ひとつのところは落第、お客はお金と時間を捨てに行くようなものだ。でも、あなたがかしこいお客なら、いつか本物の宿に出会い、主人と呼吸が通っていい関係が築けるだろう。

数だけ数えてあちこち旅するより、好きな宿と出会ったらそこをリピートするのが、落ち着いた休暇の取り方。そんな場所になるのが、この里山の奥に隠れた湯宿さか本なのである。くわしくは、インターネットや珠洲の役所で訊いてください。(註・市といっても広域なだけで実質は小さな町)


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