板敷きの廊下を歩き、四つしかない清々しいお座敷を見せてもらい、洗面所の前が外とツーツーの吹き抜けになっているのに驚き、みずみずしい緑に輝く竹林を眺めるお風呂場に感心し、わざと隙間をつけた渡り廊下の板張りを歩き――そう、この宿を見て驚いたのは、「何も無い」どころか、「ほんとうの贅沢」があることだった。簡素な素顔の下の本物志向である。娘も呟いた。
「ここって、お寺の清々しさと、西洋の合理性と清潔感があるわね」
日本家屋だから、庭に向かう窓は天井から床までの大きなガラスだが、これがすべてペアガラスだ。簀の子張りの洗面所は、京都の有次で誂えた銅の洗面器が並び、有松絞りの手ぬぐいの藍色が映える。トイレットはトートーの最高級が備えられ、色はボルドーで華やかだ。寝具は綿の王様、シーアイランド・コットンの純白とブルーのとりあわせ。
坂本新一郎、このひとが宿の主人。坊主アタマのやせた男で、美意識と天才的な味覚の持ち主とひと目で感じた。しかも家族全員が、犬のハチとクまで、宿の仕事にめいめいの持ち分をもって働いている。家族ぐるみのお泊まり処、食べ処である。
宿の主人であり、料理人として采配をふるう新ちゃんは、そば打ちの名人。私はここで出されたザルに感動。「すぐ召し上がってください」の一言もいい。
タイミングは食のいのちだ。土地の新鮮で自然な素材を生かしたお料理は、田舎っぽさに媚びることなく、お寺の清浄さと、茶道の簡素さと、京都の美学をあわせもった、すっきりした味と心憎い演出――
赤い漆の蓋物に懐紙を折って、そこにふたひらの焙ったワカメ。かりっと香ばしいイシルの焼きむすびは妻がにぎる。自家製がんもどきは揚げた甘エビも入った凝った中身で「おばば」こと、お母さんの掌サイズ。筍のはさみ揚げは甘エビを摺りおろして入れてある、個性的なひと皿だ。
単純に見える品を最高の味で出すほどむずかしいことはなく、これをやってのけたのが、いまは無い四谷の料亭〈丸梅〉の女将だった。丸梅の精神を、この宿に見る気がした。飾り立てるのはごまかしが効く。品数を増やすのは、質を落とせば容易い。それを抑えて、最高と信じるものだけを差し出すのが、店の心意気だ。それを汲まなければ、行った甲斐がない。
いまどきの宿は「この値段で夜は二十三品もつく」といった宣伝をして臆面もない。お客のほうも「金を出したからには、わがまま放題するぞ」というケチな了見に傾きやすい。でも私たちが欲しいのは品数でなく、気持ちをこめてつくられた味なのだ。
料理屋、宿、ホテル―― 客商売は、銭かね勘定ひとつのところは落第、お客はお金と時間を捨てに行くようなものだ。でも、あなたがかしこいお客なら、いつか本物の宿に出会い、主人と呼吸が通っていい関係が築けるだろう。
数だけ数えてあちこち旅するより、好きな宿と出会ったらそこをリピートするのが、落ち着いた休暇の取り方。そんな場所になるのが、この里山の奥に隠れた湯宿さか本なのである。くわしくは、インターネットや珠洲の役所で訊いてください。(註・市といっても広域なだけで実質は小さな町)
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