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時は九月、黄昏どき。私は秋の装い、娘のアミと、ニューグランドの予約のテーブルに近づいた。待ち合わせの極楽トンボは席でにっこり。
「窓際席は狭いから、この丸テーブルがベストなんだよ」
ニューグランドといえば、横浜港を見わたすホテル・ニューグランドにきまってる。昔は外国へ行くのは船、そして外国航路は横浜からだから、ニューグランドは見送りで賑わった。前日に泊まって飲みすぎ、寝過ごして乗り遅れた新聞特派員もいる。

カジュアルなレストラン、ザ・カフェは旧館の一階にある。なじみの玄関口に乗りつけようとしたら、りゃりゃ、大型バスとタクシーでふさがれている。窓をおろしてタクシーに、「玄関ここじゃないの?」と訊くと「角を左折したとこに新館の玄関が」
横浜はどんどん変わる。でも超高層の新しいホテル林立のなかで、私が来たいのは暖かみのあるニューグランド。子供の頃からなじみのホテルだ。最上階の五階にあるダイニングの窓辺で食べる楽しみ、中庭のお茶や、一階の売店で小物を覗く――落ちついた楽しみがちりばめられたホテルだ。

今晩の本命は「オールドクラシック・メニュ」。横浜のTVKに行くことになったとき、いつものように何を食べよう? とすぐ考える。横浜だからって中華でなくていいわ。ニューグランドは? 閃いて、アミがインターネットで引いたらビンゴ!
パソコンの画面を見て彼女が叫んだ。「『オールドクラシックフェア』の期間で、昔風のメニュ出すの。骨付き、丸ごとの舌平目のフライがあるの! これって、この頃のホテル出さないでしょ」
「すごい! いまは切り身ばっかりよね」
一九二七年創業のホテルだから、チャップリンも泊まった古きよき時代を偲ぶ趣向だろう。鳥を見たネコみたいにはりきって、私は日に限定十五個のチキンポットパイを、アミは丸のままの舌平目のフライを予約した。極楽トンボを誘ったら、彼もすぐ乗って、チキンポットパイを予約。
オールドクラシック・メニュは、スープ、メインディッシュ、パン、デザートにコーヒーで二千六百円というリーズナブルな値段。スープはクリーミィなトマトスープで、「これ、しつこくないから、長逗留でも飽きずに食べられるんだよ」
横浜通ぶりを極楽トンボが披瀝した。彼はいっとき港が見えるマンションに住んでいたことがあり、この辺は彼のなわばりだ。

予約してあった注文を伝えに黒服が消えた。じき戻ってきたらなんと、
「申し訳ありません、舌平目が切れまして」
「えー?」アミは目の前マックラ。「ジョーダンじゃないわ! そのために来たのよ。そっちも電話で『いくらでもございます』って言ったのよ」
ほかの食堂から舌平目とってくればいいのよ、と慰めていたら、戻るなり、「ございました」とけろり。
一同ホッ。ガソリン三度目の値上げでやってきたヨコハマだ。ちゃんとしてくれなくちゃ。サーヴィス業は、予約をきちっと守るのが第一歩だ。


大きな一匹のまま、バターも巨大なクラシック


以前は個人のいいお客がたくさんいて、店側も心きいた主人(いまは社長、会長と名前もいかめしい)が、お客の様子を見てまわった。ニューグランドは、ダイニングのスターライト・グリルで食べていると、社長の野村さんが、テーブルごとに回ってお客に挨拶していたのを、子供の私も覚えている。おとなになってからカレーを食べに行ったときも同じだった。ホテルオークラは戦後の後発ホテルだけれど、創業者の小野さんもよく見回っていた。

ニューグランド旧館の女性用トイレットは、昔のままの姿なのを発見。現代砂漠の中のオアシスみたい。洗面台は茶の大理石で真鍮の十字型の蛇口、白陶器の真ん中にCHAUDとFROIDのマーク。白ペイントの木製のドア、クラシックな真鍮のドアハンドル、低い仕切り。ロンドンのサヴォイもこれだ。リーガロイヤル東京は新しいホテルだが、トイレットのブースはこの式のクラシック仕立てにしている。

プログレッシヴ(進歩的)の反対語はリトログレッシヴ(逆戻りする、後退)で、建築や美術のレトロ趣味はわかるけれど、政治や社会意識のレトロはノーだ。ニンゲンが〈進化して〉ロボット風になるのは不気味、情緒はレトロなほうが救われそうだ。

帰り際、フロントの反対側の壁の古い写真をいれた額に気づいた。古きよき時代の日本のホテルが六枚。日光の金谷ホテル、箱根宮の下の富士屋ホテル、軽井沢の万平ホテル、奈良ホテル、東京ステーションホテル、そしてこのニューグランドだ。どのホテルも子供時代から泊まっていて懐かしい。例外は東京駅のステーションホテル。ここは東京人は泊まる必要がないから、なじみがない。

この四月ニューヨークから来たいとこが成田から帰る前の日、ここに泊まった。その日関西から新幹線で戻って、翌朝成田エキスプレスに乗るから、インターネットで予約したらしい。
「慰めに行かない? きっと淋しがってるわよ」私たちはピンときた。朝食用にルヴァンのクロワッサンとオレンジを持って夜訪れた。果たして友達との会食をすませたヤスコは、くさび型の小部屋でちょっと落ち込んでいた。メイド部屋という感じだ。

「ひどいでしょ、オークラに戻ればよかった」
窓から見下ろすと、外でなく数階下の東京駅の中央ホールが見下ろせる。
「まあ面白いじゃない? 線路を見る側よりいいわよ」
慰めて、二階のバーに行った。オーク張りの暗いクラシックなバーだ。丸の内側に小さな窓、狭いけれどほっと一息。バーテンダーは、その道の神様といわれた今井清さんの薫陶を受けた人だった。滞在中〈カクテル恋し〉だったヤスコは、カクテルでなくバーボンの水割りを、私はギブソン、アミは運転手なのでソフトドリンク。ここは東京駅から家路につくひとのしばしの憩いの場、そして出張族の塒らしい。駅の慌ただしさがそこはかとなく漂っている。ちょっと手入れがわるいホテルだったが、その古めかしさもわるくなかった。


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