店主敬白・其ノ拾九






以前、私共の会社で働いていて、その後、アメリカに移住している女性から連絡があって、久しぶりに日本に帰って来たから会いたいと言ってきた。もう結婚していて、御主人と私共の店に来た。御主人はミュージシャンで二十三年間もアメリカで仕事していると言う。音楽のジャンルは本来R&Bだがジャズの分野でそれなりの成功をしているようだった。若い時は日本料理店でバイトをしながら音楽の勉強をしていたという事で飲食店の事はとても興味があると言って、色々な質問を私にしてきた。

とても気さくな人で、私もこの夫婦との会話をしばし楽しんだ。彼は「仕事柄よく食べ歩きをするのですか?」と聞いてきたので、「皆さんが思う程してません。でも海外に行くとめちゃくちゃ食べ歩きます」と答えた。「なぜ海外なんですか?」と言うので、「海外の体験は、知らない事ばかりで得る物も大きいと思います」と答えたら、彼は「あなたにとって、おいしい料理の定義って、何ですか?」と訊かれた。私は少々、答えに窮して、心の中で自問自答してみたが、出て来た答えは「私がおいしいと思った料理が、おいしい料理だと思ってます」と答えてしまった。

彼がびっくりした顔をしていたので、私は慌てて説明した。「私は料理人ではないのです。いわば、店の主人です。私がおいしいと思わない料理はお客様に出せません。良い料理人は、私の味を感じ取ります。その様な料理人は、他の店へ行けばやはり、そこの店の主人の味を感じ取ります。料理人が自分の味を出してしまえば、店全体のハーモニーが崩れます。だから私は料理人との味の調整をとても大切にしています」と。

彼はしばらく考えて、「アメリカでは、音楽の世界は非常に競争が激しくて、ミュージシャン一人ではとても勝ち上がれません。良いプロデューサーがついて、そのプロデューサーについて行ける技をもったミュージシャンが成功して行けます。でも、スターになるのはミュージシャンでプロデューサーではない。確かに自己主張に酔っているミュージシャンで成功している人はいないですね。それと同じ事ですかね?」と訊いてきた。私は、「たぶん、似ていると思いますよ。自分の料理を自分で評価するのはとても難しいと思いますよ。良い料理人なら、いつもまだ足りないとしか答えが出ないと思います」。

そんな会話を交わしていたら、私はある場面を思い出していた。私の友人で、映画や舞台の世界では有名な役者がいる。彼と、彼の舞台の相手役の大物女優と三人で飲んだ時、素人の私に役者の世界の話を色々としてくれた時の事である。

「役者にとって、時代劇はやさしい仕事だ。昔の時代だから、本当の姿を誰も見ていない。だから、唯、役を演じていれば良い。やりにくいのはテレビのホームドラマ。だってテレビを見ている人がテレビの前でホームドラマをやっているのだから。役者は演じてはいけない、自然体の中に演技がある」。「前回の舞台で、ある役者が目立とうとして、アドリブでちょっと気を引く演技をしたら、もう、主役である僕は全く動けなくなってしまった」。

私が「そんな事で動けなくなるの」と訊いたら、「ある」「あるわ」と。
「役者はかなりデリケートな部分で役を演じているからね。今の舞台では二人が主演だから、毎日アドリブは入っている。でも二人共舞台の事はめちゃくちゃ勉強しているから。それに毎日打合わせをしている。それでも台本には忠実なのだよ。もちろん演出家のアドバイスも毎日受けている。それなのに、舞台が何かもわからない役者が目立とうと何かをやると、観客の目線がばらけてしまう。そうすると、皆が動けなくなる。主役にその気分がドーンと来る」。「役者は演じないのが良い。自然体でなければ。演じない中に演技があるんだよ。子役は演技が上手だよ。最初から自然体なんだから」。「道端の石を演じろと言われたら、これが一番難しい。わかるかな。ハネ(私のこと)」。「例えば、恋人が置き手紙をして逃げてしまう。その手紙を見つけて読む。読んでいる人の反応はどこから出る。読み出した時、読んでる最中、読み終わった時、もっと後、実生活の中だったら、普通考えるより遅いと思うよ。そういう間一つ一つが大切なんだ」。

「シンプル・イズ・ザ・ベスト。これを覚えておいた方が良いわよ。ハネ。あなたの仕事にもあてはまると思うわ」。こんな会話が続いた。その場面がパーッと浮かんできた。「おいしい料理の定義は私がおいしいと思った料理」等ととても偉そうな事を言ってしまったはずかしさに色々弁明していたら浮かんだ場面である。

今、この文を書いていて、やはり、私の言った事はある意味間違ってはいないと思うのだが、唯、料理人の技量、得意な仕事、感性、考え方、私の考えとの合致点等々、色々な事を考える。私が語り、料理人が語る。料理の試作が何回もされる。これならいけると私が思う。いつも思う事だが、作業の割に良い作品は常にシンプルなものである。


Copyright (C) 2002-2005 idea.co. All rights reserved.