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親類の結婚式に出る機会がなくなった。若い人はいても、だれも結婚しないからだ。非婚時代の少子高齢化の影響は、こんなところにも現れる。代わりにあるのが、お葬式だ。一九九四、九六、九八年とつづいて三つ。義理の妹、九十八歳まで長生きした父、いちばん年下の叔父のお葬式だ。その度に、一族が集まるのだが、その中の若いひとたちの顔がわからない。たいてい、いとこの娘や息子たちなのだが、もし名前ぐらい聞いていても、名前と顔が一致しない。

その逆もある。
「ママ、アミ初めてアサちゃんとチャーちゃんの顔がわかったわ」
二つ目のお葬式のあと、アミが私のいとこの名をあげてつくづく言った。「ママから名前聞いてて、ときには電話かかってきても、ご本人に会うのって、たまーのお葬式だけでしょ」
「そうかー! 私のいとこを、あなたは知らなかったわけね」
「和子叔母ちゃまや春子叔母ちゃまだって、すてきだからもっとお話うかがいたいけど、お葬式じゃゆっくりするチャンスがないし」

言われてみると、これはヘンじゃないかしら? 私の子供の頃は、父方の親類も、母方の親類も、何かと会う機会があった。大勢で食事をするとか、クリスマスに集まる、新年に訪問する、休みに同じホテルに泊まりがけで遊びに行くとかが、自然に行われていたからだ。

ひとつの家系は、大きな樹みたいなものだ。枝が幾つもわかれて、一本の樹になっている。ヤングでもオールドでも、みな樹のどこかに実のようにくっついているのだ。それがファミリー・トゥリーで、メンバーは一族の意識をわかちあう。アメリカ映画の「ストレート・ストーリー」でも、老人のストレートは、キャンプで家出娘に束ねた枝を見せて、
「これがファミリーだ。一本では折れても、束になるとつよいんだよ」と家族のきずなを教える。 

日本では親族はうるさいもの、が通り相場になっていて、親類づきあいはできるだけ避けるのが多い。父が日曜日をファミリーデイとして、娘息子の家族に叔母たちも含めてホテルで食事したのは、ファミリーのきずなのためだったと、いまになってわかった。
欧米でもいやな親類がいるのは日本と共通だが、ヨメ姑でも意見をどんどん言う環境だから、日本よりファミリー意識がつよい。アメリカなら、クリスマス、サンクスギヴィング、親の誕生日にファミリーが集まる。

うちは私の父方の波多野ファミリーと、母方の瀬下ファミリー、それに私の結婚で生じた犬養ファミリーがあるのだが、すでに犬養ファミリーは、非婚と少子化で、縮小の一歩。波多野ファミリーは長老の父が亡くなって、日曜日に食事する習慣が消え、元気ないとこが二人も海外在住で、これも縮小。瀬下ファミリーは別格に活発で、いとこも多く、叔母の二人は八十歳代で元気だ。

これはファミリーとして盛り上げるべきじゃないか? そう気づいたのは、お葬式での娘の感想に触発されたから。娘は言う。
「叔母ちゃまたちって、一族の刀自でしょ。年のいった女の人がファミリーに君臨するってステキだと思うわ。叔母ちゃまたちを大事にしたいな」
刀自の元に集まれ! 女の時代らしい、すてきなプロジェクトじゃないか。和さまという叔母の一人は現役の幼稚園経営者、春さまは学校の同級生と週一回、テニスのレッスンを受け、
「ダブルス組むと合計三百歳以上になるのよ」と笑う。
これももしや、ちょっぴりサバを読んでいて、合計は三百四十歳なのかもしれない。ゲンキ・シニアは私のめざす社会の姿だから、叔母と姪(みんなシニアだ)の集まりを大きくしよう、と計画がふくらんできた。

米寿の叔母たちの魅力に3世代がつどうファミリー




和さまは、娘時代、中隊長と呼ばれていた活発なひと、和さまに年の近い、いちばん年上の姪(つまり私のいとこ)は小隊長格のアタマのいい、決断力のある女。彼女がアレンジして、叔母と姪たちでときどきランチを共にしていたのに、私も加わるようになって一年。ある日娘が言った。

「アミも行きたいな、叔母ちゃまたちにお会いして、お話したいから」
「いいアイディアだわ。叔母ちゃまに伺ってみるわね」
叔母は「もちろんいらっしゃい」と二つ返事。

こうして、叔母、姪に加えて、もひとつ下のジェネレーションが加わる小さな昼食会に発展した。そのうちにまた私は気づいて、小隊長に提案した。
「姪に限らなくてもいいんじゃない? 甥にも声をかけて、ファミリーでもっと顔を見るようにしたらどうかしら?」
「それ、とってもいいわ」いとこは賛成した。「オトコたちもリタイアしてるから、気が向けばくるわよ」
「強制力や義理なしで、来たい人だけくる、面倒な人は来ない、自由な集まりを強調しましょうね」

そんなわけで気楽な会は、回を追うに従って、男の参加が増えた。子供時代からほとんど会っていなかった、年の離れたいとこも来るようになって、意外と面白い男だという発見をしたり、収穫は大きい。チャンスをつくれば、ファミリーはくじゃくの羽みたいに広がる。親類の個々のひとのキャラクターがわかって親しくなるのは、野原を歩いて、きれいな花や、変わった木の実を拾うようなものだ。まず野原を散策しなくちゃ、発見もない。
「よかったわね。こんな風に広がって」

いつのまにか、新年にしゃれたレストランで、おいしくてリーズナブルな会費で、一族で集まることも恒例になった。それも、お葬式での発見がきっかけだ。とはいっても、小さな砂利できしんだこともある。アミが初めて参加したとき、姉に言われた。
「ほんとはアミが来るのはおかしいのよ。叔母と姪の会でしょ、アミは姪の子供だから、序列からいうと違うのよ。うちの子供たちも来ていないでしょ」

「序列なんて関係ないわ。来たいから来る、でいいんじゃない? 来ない人は来る意志がないから来ないのよ」同じファミリーにもこんな考え方があるのかと、私は驚いた。


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