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懐かしい味が母親の味とは限らない。どこかで親しんだ味が忘れられず、その店が懐かしく、ずっとたってから訪れるということが人生ではときおり起きる。

軽井沢の栄林もそのひとつ。栄林は東京の赤坂にある割烹式の中華料理屋で、いまは誰でも行きやすい店にしたらしいけれど、 一九六〇年代にはお座敷中華で、親類やお客の集まりに向く店、親がよく使った。

栄林は夏の軽井沢にも店を出し、そこは気軽な家族向けの店だった。私は子供連れで両親と一緒に行ったり、友達と行ったりした。軽井沢がやたら混むようになって「町に行くのは面倒」と、栄林へのご無沙汰が続いた。それが去年、なんとなく電話したら、昔懐かしいご主人が電話に出た。
「犬養さんですか? 主人でございます」
「まあ関口さん、お変わりなく?」
「夏は必ず来ております。お懐かしいです」
にんげんのタッチが甦ると、店も息を吹き返す。混むのイヤなんて言わないで、さっそく行ってみた。

開店早々の十一時半なら空いている。中庭の見えるテーブルについた。もみじの樹は緑の葉をひろげ、たっぷりの日陰をつくっている。この中庭が栄林の魅力だ。ご主人は枯れたシニアになっていたが、向こうも同じようにこちらのことを感じたろう。メニュをはさんで、しばしよもやま話に花が咲いた。
「おかげさまで、娘婿も来てがんばっております」 
メニュを見ると、昔なつかしい品が並んでいる。細切り鶏肉の塩味つゆそば(ラーメンとは言わない)は私の好物、ジャージャー麺は娘が好きでよく食べたものだ。小学生だった息子が必ず食べたのが、卵チャーハンで、これはいちばん安い一皿だった。
「スーラータンメンというのが新しくできました」ご主人が教えた。「酸味と辛味で、東京でも好評です」
さっそくそれにした。私は酸味をやや減らし、アミは店どおりに。おつゆは両方とも、とても熱くして。

おいしいものへの期待でニコニコ
メニュには「酢と芥子入り特製つゆそば」と説明し、値段は千五百七十五円、ほかのよりちょっと安い。現れたそれは溶き卵とたっぷりのネギが浮き島のよう、私の好みにぴたりだ!
気に入って、その夏は三回も食べに行った。気に入ったときの癖で、友達も誘った。
家に帰ってアミがつぶやいた。「昔の栄林のメニュがあるんじゃないかしら?」
あった、あった。めくってみると、ふかひれの大盆が二千円、チキンは大盆がどれも千円、チャーハンは卵が百五十円、ほかは二百円。私の好きだった鶏肉つゆそばは百五十円。ジャージャー麺(挽肉味噌かけそば)は二百円。今年の夏のメニュでは、鶏肉つゆそばやジャージャー麺は千八百九十円だから、ほぼ十倍になっている。
「いつごろのかしら?」
「一九七〇年代には夏、北海道に行ってたから、これ六〇年代じゃない?」
栄林のご主人、関口さんに電話するとぜひ見たいという。次のチャンスに見せたら、
「これはうちにも残っていません。昔のほうがたくさん作っていましたね。コピーさせてください」
たぶん、昭和三十六年(一九六一)頃だろうという。四十年以上まえのものだ。

生物が枯れたり、新しく芽を出したりするように、メニュにも成長があるのは当然だ。昔の定番だった卵チャーハンはなくなったかわり、新登場がスーラータンメンだし、中華のデザートの定番、杏仁豆腐と並んで、洋風を加味したデザートもできた。

溝口さんという料理長が工夫したミルクプリン・浅間ベリーソース五百二十五円が登場した。一日に三十個限定で、フレッシュな感覚だ。料理長おすすめ料理にある、おこげの蟹肉あんかけは、中華のおこげ好きの私には魅力で、小盆ひとつでアミと二人前になるだろうと思案していたけれど、行くチャンスがないまま、東京に帰ってきた。


東京で行かなくなっていたのが、永田町のキャピトル東急(以前のヒルトン)だ。父親とのサンデー・ランチョンが続いていた頃は、オークラかヒルトンのお昼だった。コーヒーショップ、オリガミのジャンボバーガーやパーコー麺をよく食べた。東京ヒルトンが新宿に移り、ここが東急系になるとウエイターも変わり、自然、足が遠のいた。

それでも名を引きついだオリガミはアメリカンな食べ物が特徴で、これだけは食べたいから、ときおり娘と足を運んでいた。アミにとっては子供時代からの味だ。

ところが! 十一月でホテル建て替えのため、営業をやめるという。それじゃやってる間に食べに行かなきゃ。建て替えるとホテルはキンキラになり、以前のよさをなくすのを、ずいぶん見てきた。メニュだって変わるかもしれない。

すぐ、ジャンボバーガーを食べに行った。コールスロウにはキャラウェイ・シードを入れてね、と昔のままを頼んだ。東京ヒルトン時代には、アメリカそのもので、ハンバーガーのバン(bun)は巨大で、ハンバーガーがはみ出るようにはさまり、トマトの厚いスライスと玉ネギがたっぷり。焼き方もレアといえばほんとのレア。私はミディアムレアをよく頼んだ。肉を注文どおりに焼けるのはアメリカ式のところ。日本のホテルは焼きすぎが多い。

ここにしかないお料理が魅力だ。イスラエル風のスモークド・サーモンのオープン・サンドウィッチは、黒パンが二枚、片方に山盛りのスモークドサーモン(ロックスという)、もう一枚はクリームチーズを盛り上げるように塗ってある。ユダヤ風のロックスは、ベーグル風のパンにはさんであった。

骨附き豚を揚げたパーコー麺は、たっぷりの薬味が惜しげなく出てくるので好き。あれのちょっぴりはほんとにいやだ。インドネシア風フライドライスは、なぜか男の子が好きだった。みんな、消えるまえに食べに行かなくちゃ。


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