日本の素材が海外でどんどん使われていることは、知ってるつもりだったけれど、アンコウとは驚いた。「国境なき料理になったわね!」私はアミに言った。
「国境なき医師団」(MSF / Medecins Sans Frontieres)は一九七一年にフランスで創立され、以来、世界七十か国で医療の援助活動をしている団体だが、お料理も国境が消え、「国境なき料理、国境なき料理人」の時代になったのだ。アンコウは、暖かい海の魚で、地中海のニームのシェフがロブションと実演した。
「国境なき料理」を実感するのは、外国のレストランで日本語がそのまま使われるのを見たときだ。これこそ日本の素材や料理法が世界にとけこんだ印だ。スシやトロやショウユはずっとまえから世界に流通してるけど、NYの評判のレストランで、ダイコン、シイタケ、カイワレ、ワサビ、ジャパニーズパン粉――茶色でざらっと固いパン粉に対して、日本式は白くやわらかいなど。
魚料理のおいしさで知られるNYのレストラン、オセアナでは、メニュにダイコンとあって、サラダの中にカイワレがはいっていた。私はおせ
っかい気分でウェイターに、「これはダイコンの芽で、日本語ではKAIWAREというのよ」と字を書いて教えた。「ダイコンは土の下、土の上のスプラウトがカイワレなの」
これは日本料理が外国に「輸出」された場合だ。当然「輸入」もある。テレビのロブションも輸入なら、料理本も輸入だ。うちの食卓が近ごろとみに国境をなくしているのは、本が増え、CSの情報が増えたから。NYのジャン・ジョルジュ、プロヴァンスのパトリス・ジュリアンはその代表。
うちの夜の食卓に登場するのは、主菜も野菜も彼らの料理で、当然レセピにはもとのフランス語やイタリー語、英語が書いてあるから、aubergines au grill, gardiane d'agneauなどが並ぶ。オウベルジンはナス、ダニョウは子羊。外国人がダイコンを覚えるように、日本でも自然にフランス語が日常にはいってくるわけだ。地球のあちこちのいろんな家庭で、同じようによその国の料理を、よその国のやりかたでつくって食べているなんて、想像しても楽しい。
国境がなくなったおかげで、平凡な野菜や肉、「また同じ!」になりがちな、サツマイモやジャガイモが、ぜんぜん別の使い方でみごと生き返ることもしばしばだ。中でも煮るか炒めるしかないと思っていた野菜の別の生かし方は、ヘアを変え、メイクを変えて、平凡な女ががぜんチャーミングな美人になるのと似ている。実際、今あげた二つのお料理は、おナスとジャガイモをうちの食卓によみがえらせた。
それでも、国境が消えない分野もある。それは、出されるお料理の分量だ。外国はどーんと、なんでもた
っぷり。日本はなんでもちょっぴり。ドーンに慣れてる海外のひとたちは、日本のホテルやレストランで、ギョっとし、次に「足りない!」そして「高い!」になる。
ベーコンひとつとっても、日本のホテルのベーコンは薄くて食べた気がしない。それがちょこんと二枚だけ。海外なら朝、一人のお皿に肉厚のが何枚も載って、卵と出てくる。東京に外国からきた学者が安く泊まれる上品な会館がある。ここはお庭が美しく、気持ちいいのだが、最大の欠点は食事の量だ。
「朝、トーストが一枚しかこないのよ」いつも利用する友達がいった。「もう一枚欲しいときは、ハムいらないからトーストを二枚にして、って言うの」
「なぜ、最初から二枚ちょうだい、って言わないの?足りないって言えばいいのに」私は呆れた。学者は世界的に遠慮っぽいのかしら? 朝からこれじゃ、気が萎える。
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