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今、デパートやスーパーには、選ぶのに困るほどの塩が並んでいますが、この現象はここ数年のことで、十年前までは専売公社の食塩だけしか買うことができませんでした。

特に一九七一年に「塩業近代化臨時措置法」が作られてからは、国民は「イオン交換膜法」という化学工業的に作られた純度九十九%という塩化ナトリウムの塩しか買えませんでした。


戦後、日本は工業用塩の需要が増大して、塩の生産量(八十%以上が工業用で食用は四%)を増やす必要があったのです。この精製塩は、工業用には優れていたものの、食用としては重大な欠陥品でした。日本の塩は古代から海水から作られ、にがり分が多く含まれていました。にがりは人間の生命活動に不可欠なミネラル分で、味もおいしくしてくれます。そのにがりがまったく含まれていない塩だったのです。それにも係わらず、国は国内の塩田をすべて閉鎖し、化学塩だけを生産するという「いのちよりも経済を優先させた」悪政を行ったのです。当時、マスコミにもあまり取上げられることも無く、多くの国民は化学塩による深刻な問題を知る人は少なかったのです。

この状況に危機感を抱いた人たちが自然塩を復活させようと一九七二年に運動を立ち上げました。


運動の中心になったのは、武者総一郎、牛尾盛保、谷 克彦の三人の学者でした。桜沢如一(長寿食、食養料理指導家)が主宰する日本CIの中に食用塩調査会を立ち上げ、まず全国を駆け回り情報を収集し、塩の成分を科学的に調査して化学塩はミネラル分において大きな問題があることを解明し、政府に強力な陳情を行いました。国の強硬姿勢に、塩専売法の範囲内で行える、輸入天日塩に「にがり」を加えるという再生自然塩を作ることを提案し、製造販売を認めさせました。

次のステップは、自然海塩を実際に生産することでした。そのため一九七六年、伊豆大島に製塩研究所を設立して、試験目的の製塩許可を取得し、自然製塩法の開発の研究を始めました。それから九年後、塩の試験製造が許可制から届出制になり、このとき昔ながらの自然海塩が復活したのです。

今、皆さんがおいしくて体によい塩を食べられるのも、また私が自然塩を作ることができるのも、私の師である谷 克彦、武者総一郎、牛尾盛保の三人の学者はじめ多くの人々の戦いと努力によってこの自然海塩復活があったからです。次号から、この先達たちのお話しをしてまいりたいと思います。



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