No.238









.

●夕刻、他の店々よりも少し早めに暖簾を出す、銀座のおでん屋さんがある。銀座付近での仕事を終えた後で「今日は呑まずに帰る」という時に、オープン早々のその店に、よくふらりと立ち寄ったものだ。普通の職場が退ける前の時間だから、老紳士や職人風その他がカウンターにまだ数人止まるだけである。若かりし頃の儂は、彼らの立ち居振舞いに大いに魅せられたものだ。

▲東京を離れて久しい今は、もう滅多にその店を覗く機会はないが、偶さか立ち寄ると、懐かしい店長・主任・銅前の顔が今もあって、温かく(おでんだから当たり前?)迎えてくれる。豆腐・大根か豆腐のダブル、それからスジまたはツミレと若布……偶にゲソや竹輪麩やネギマを加えることもあるけど、昔も今も儂の守備範囲(カテゴリー)はそれを超えない。チロリで燗をした酒をコップに移しながら二〜三本やって、独りなら三十分を超えずに引き上げる。それでも偶に酔いが回ると梯子癖が出て、同じ通りにある鮨店に飛び込んだりした。だが、例えば皮剥(かわはぎ)の共酢や鮟肝(あんきも)で一〜二本やってすぐに退散だ。何しろ“呑まない日”なのだから――。

■儂の棲む田舎町にも、彼のおでん屋の系列と思しきが、新規開店した。早速覗いてみたが、味も雰囲気もまるで異なっていた。閑話序でに記すと、昔名古屋の友人に案内されて八丁味噌で煮込んだおでんを食べた。面白い味だった。店主一人で切り盛りする小体の店である。あれをもう一度味わいたいと思うのだが、店の場所も屋号も、もう思い出せない。口数少なく微笑む店主は、時の流れを慮れば、もう全く無口になっているかも知れない。

.

Copyright (C) 2002-2006 idea.co. All rights reserved.