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ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』、読みたいなと思いながら、ハードカヴァーはいや。文庫本になるのを待って読んだ! 読み出せばあっというま。でも、こんな複雑な話ってあるかしら?

出だしはルーヴルが舞台。「モナ・リザ」の展示してある細長い部屋も出てくる。あの世界一有名な絵、初めて見たとき、思っていたより、はるかに小さいのでびっくりした。レオナルドの名前の大きさが、絵を大きく印象づけていたのだ。

でもあの時代の不便な旅行にいつも携えていたという、彼がこよなく愛した絵、そう大きいはずもない。「レオナルド」――この名前はなんて偉大なことか。絵も彫刻も発明も科学も、空を飛ぶ道具まで考案したルネッサンスの偉大な頭脳。そしてレオナルドは、この一年、東京のあらゆるところに息づいていた。

三月から六月まで上野のダヴィンチ展。『ダヴィンチ・コード』の映画は、CS放送でとうとうこの夏、カウチポテトでベッドに寝転んで堪能した。

CSではほかにも目玉があった。一九七二年イタリア放送協会製作の『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』"La Vita di Leonardo da Vinci"の五部作。ダ・ヴィンチは、ヴィンチ村出身の意味。ルネッサンス・イタリーの歴史は、輝く星々のような数多の芸術家、闘い好きで芸術家の庇護者を任じたミラノやフィレンツェのプリンスたちの織りなす大タペストリーだ。

歴史と美術でバラバラに知っていた人物像が『レオナルドの生涯』でひとつにつながった。そして最後に極めつけの本にぶつかった。教文館で偶然手にした、大好きな作家カニグスバーグなのに、知らなかった『ジョコンダ夫人の肖像』。なぜモナ・リザをわざわざこの名で?

この一冊が、レオナルドという、目くるめく太陽が百もあるような人物に、ぱっちり焦点をあわせてくれた。カニグスバーグはレオナルドとその時代を描くのに、天才的な絵筆を使った。サライ(小悪魔の意)という少年の徒弟、こそ泥でウソつき、金髪の巻き毛の男の子がそれ。

サライは「(ギリシャ神話の)イアソンだって金羊毛と見間違える」とレオナルドが言うほどの、美しい金髪、巻き毛の少年。レオナルドが愛して十歳から身辺に置いた実在の人物で、彼の手になるサライのスケッチが、本の表紙になっている。

レオナルドと、イル・モーロ(スフォルツァ公)の若い妃ベアトリーチェ、そしてサライの三人の関係と言葉のやりとりが、イキイキと人物像を再現し、それが謎解きにもなり、めったにない面白さだ。

そして、読みながらひどく気になったのが、何度も出てくるアニスのお菓子。サライはアニスのお菓子が大好き。いつもアニスのお菓子を食べたがっている。
「アニスのお菓子が食べたいんだよ!」
「アニスのお菓子はせんぶで六つ。レオナルドにひとつ、ぼくに五つ」。サライは山で植物観察する師匠にワイン、パン、チーズとアニスのお弁当を届けに行く。でもアニスのお菓子はサライの独占だ。


500年まえの美味、アニスクッキース



アニスのお菓子ってなんだろう? こんなにサライが憧れたお菓子は? 私たちの日常にアニスは見かけないけど……。

翻訳では、どこをひっくり返してもただ「お菓子」とだけ。元の言葉は何なのか? とうとうamazon.comをひいて、巻き毛のサライの横顔が表紙の"The Second Mrs. Gioconda"を、夏休みまえアメリカに注文した。

八月末、本は届いた。茶がかったペーパーバックをパラパラめくった。あった、あちこちに。
サライ憧れのアニスのお菓子は―anise comfits, anise cookies,anise cakes―として出てくる。コンフィッツはお菓子でも種や果物入りの意味。作者はコンフィッツもクッキースもケーキも同じに使っていた。

こんどは、Larousse〈ラルース〉で調べた。重く厚ぼったい、落したら足にケガする本。なんと、りっぱにあった。ANISEがあり、アニスシードのビスケットのレセピまである! 

中華料理で使う八角は、強い芳香を出すお星さま型のスパイス、名前もスター・アニスで別ものだ。アニスは、お菓子にはaniseed〈アニスシード〉、つまり種を使うと知った。発音はアニシード。アロマティックな匂いが魅力だ。

アニスはエジプトとインドに産し、ルネッサンス時代にイタリーにはいってきたらしい。サライの暮らした日々、アニスは目新しい輸入品。アニスのお菓子は誘惑のアロマを放っていた!
レセピ自体は単純だ。でもアニスシードがいる。

うち中のスパイスの瓶を漁って、アミがやっとひと瓶見つけ出したら、数年まえの期限切れ。使うチャンスがなかったのだ。せっかく、サライの味を再現するなら、新しいのでちゃんとやらなくちゃ。
レセピを見るとすごい分量。キャスター・シュガー五〇〇グラム、卵十二個。粉五〇〇グラム、コンースターチ五〇〇グラム。こんな量でやったらぽんぽこタヌキになる! 半分にした。砂糖二五〇グラム、粉二五〇グラム、卵六個、コーンスターチ一〇〇グラム、アニスシードは半量の二五グラム。それで正解だったのは、アニスシードは、ひと瓶たった三〇グラム。一度で終わりだ。

つくる手順はとてもシンプル。すべてをよくミックスするだけ。黒い点々の見えるどろりとしたタネを、ベーキングシートに大さじ一ずつ丸く垂らし、室温で乾かしてから、低温のオーヴンで色づくように焼く。

一枚目は温度が高すぎた。低温でゆっくり焼いた二枚目のがだんぜん香りがよかった。アニスの香りが口いっぱいにひろがる。
「アニスってこんなにおいしかったの!」
「サライが夢中になったはずね、ベアトリーチェも」
アニスは癖になると、あるパティシエも言った。
「こんなシンプルなレセピなら、サライの頃とそう変わってないんじゃない?」
お砂糖の種類だけ、昔は茶色だったろう。次は精製してない茶色のお砂糖を使おう。

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