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今、皆さんが美味しい塩を食べられるのも、私が塩を作ることができるのも、自然塩復活運動に参加した多くの方々の努力があったからです。その中で、私の師であり、自然塩復活運動のリーダーとして献身的な努力をされた谷 克彦氏のお話をしたいと思います。

沖縄が本土に復帰したのは一九七二年。復帰と同時に日本の規制下に置かれ、前年に施行された「塩業近代化臨時措置法」が適用され、大昔から沢山あった塩田はすべて閉鎖、「イオン交換膜法」で化学的に作られたナトリウム九九・四%の食用塩に代えられてしまったのです。

その頃タイル職人であった私は、病弱のため自然食やヨガのサークルなどに参加していて、そこで「塩のミネラル」が人間の体にとって大切であることを知り、塩に関心を持ち始めた時期でした。
自然塩が沖縄から消えた三年後の夏、読谷村で自然塩復活を夢に全国から集まった有志たちにより「塩づくりワークキャンプ」が開催され、勉強会が行われました。私も手弁当で参加し、そこで私の人生を決定付けた出会いがありました。

その人こそ谷 克彦氏でした。当時私は三十六歳、谷氏も同じ歳で、自然塩復活運動のため全国の塩を調査する食用塩調査会の調査部長でした。谷氏は沖縄に滞在し、用地千坪を借り、太陽熱と風を頼りにした「タワー式塩田法」という新しい製塩方式の研究実験を行いました。この方式は石油が枯渇する時代を見越して発案され、火力を用いないため出来た塩にミネラル分が多く残り、海水のミネラルバランスが崩れない塩が作れ、今までの塩田方式に比べ燃料もいらず人の労力も土地の広さも最小限で効率の良いのが特長です。今の私の塩工場も基本的にこの方式を取り入れています。

この研究実験には、昔の塩作りを体験する目的で海水を汲み、砂浜に撒き、太陽の熱で蒸発させる揚げ浜式塩田も同時に作られました。はじめは三十人以上のボランティアが参加していましたが、最終的には谷氏と私だけになってしまい、炎天下で体力の限界まで働き研究を続けました。作業が終わると毎晩のように、泡盛を飲み交わしながら塩談義に花を咲かせました。朝まで話が続くことも度々で、ここで原子物理学者・谷氏から受けた熱い薫陶こそが私の塩づくりの原点でありエネルギーとなったのです。


揚げ浜式塩田での過酷な作業。谷氏(写真奥)と著者

「塩のいのちは海水に含まれている多くのミネラルのバランスにある」、そして「塩作りにおいてもっとも重要なことは、海水に含まれているミネラル分をいかにバランス良く塩に残すかということである」。これらは谷氏の遺した言葉「いのちは海から」に象徴されています。

さらに谷氏は「沖縄の海も汚染が進み、このままだと本物の塩が食べられなくなってしまう」「今研究している本物の塩を世界中の人にも知らせなくてはならない」と地球規模で海洋汚染を危惧し、塩のことを考えていました。私は谷氏の視野の広さに深い感銘を受け、「世界の人にいい塩を」を必ず成し遂げなければならないと決心しました。

谷氏は一年間、沖縄で実験・研究の後、伊豆大島に渡り、タワー式塩工場を作り新しい研究・実験を始めました。私も誘われたのですが、私的都合で沖縄に残り生業のタイル職人の傍ら一人実験研究を続けることにしました。その後一九八一年、日本食用塩研究会大島研究所長だった谷氏から『塩―いのちは海から』を出版したので送りますという便りが届き、そこには「運動の絡んだ研究はかなり骨の折れる仕事です。次から次へと難しい問題が振りかかって来ては、苦しめられます」とあり、「本物の塩を取り戻そう」という谷氏らの活動が取り上げられている新聞の切抜きが添えられていました。しかし次に届いた知らせは、専売法の廃止を見届けることもなく四十八歳の若さで逝ってしまった、谷氏の訃報でした。自然塩復活のために命を削って戦ったのだと思います。この瞬間、私は谷氏と共に始めた塩の研究を続け、本物の塩を作り、世界中に伝えていくことが谷氏の恩に報いることであり私の使命である、と心に誓ったのでした。

谷 克彦(1937―1985) 東京生まれ。日本における自然塩復活運動の先駆者。著書に『塩―いのちは海から』。人間にとって食は最も大切という桜沢如一氏の「食養」を実践し、塩に関心を持つ。

1965年 立命館大学理工学部数学物理学科卒業(原子核物理学専攻)
1971年 「塩業近代化臨時措置法」が施行され、「国内天日塩廃止に関する抗議文」が発表される。五万人の署名を集め、国会に請願書を提出。
1972年 「食用塩調査会」発足。国は塩のナトリウム分の純度を高めることに努力してきたが、それは経済的理由だけで、生物による学術的理由はないと考え、調査部長として全国の塩の調査を行う。
1973年 専売塩に「にがり」を加え「特殊用塩」として認可させる。「塩づくりワークキャンプ」を開催、塩の勉強会を行う。
1975年 沖縄読谷村で「タワー式塩田法」の実験、研究を行う。
1976年 伊豆大島に「タワー式製塩試験場」を開設、天日塩作りを試す。
1979年 「日本食用塩研究会」を発足させ、大島研究所長となり、出来た塩は投棄するという条件ながら、研究目的の塩製造許可を取得する。
1980年 会費を払った人に限り、研究目的で作られた「天日塩」を無償で配ることを国に認めさせる。




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