No.240







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●立派な山道と立派な道標まである、ごく近場の山に誘われるまま出掛けた。行き交う人も多く、何だかちょっと気恥ずかしかった。不断はろくすっぽ踏み跡もない、ケモノ以外には絶対に出会うこともない薮山ばかりほっつき歩いているからだ。降ってきた山里が美しかった。「一度はこんな所に棲んでみたい」と思わせる家々が、急斜面に点在していた。足許には姫踊子草が紅紫色の花を付けて繁茂していた。一軒の家の庭から山に立ち上がる斜面が黄味がかって見えた。一面に蕗ノ薹(フキノトウ)が萌えていたのだ。友人は面相を崩して駆け上がり、片っ端からそれを摘み始めた。「下の家に断らないとマズクネ〜」とか言いながら、儂もゆっくり後に続いた。形振り構わず採りまくる彼女を待つ間の手持ち無沙汰を紛らすために、腰を下ろしたままで手の届く範囲のものをポツリポツリと摘んだ。蕗ノ薹は雪国のものというイメージが強い儂は、この手の里山では殆ど摘んだことがない。正直、旨そうには見えない。しかしスーパーなどで蕗ノ薹と称して並んでいる不思議な色と形のものと比べれば、紛れもなくモノホンの蕗ノ薹だ。儂もビニール袋を大きく膨らませて家路に就いた。帰るとすぐに幾つかを二ツ割りにして火に炙り、味噌だれをつけ、それを摘まみにキッチンで立ったまま取り敢えずビールを呑んだ。残りは擂り鉢でつぶして味噌を和わせ、キリタンポか五平餅みたいに割箸に絡めて火に炙り、こんがりと仕上げた(白木の杓文字〈しゃもじ〉でもあれば蕎麦屋の焼味噌風にやればよい)。いつもやるフライパンで炒める蕗味噌とは一味違った、芳しい酒の摘まみが出来た。この日は酒のあと蛤(はまぐり)飯などを食い、山里と海辺の春の香りを堪能できた。

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