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先に紹介した谷克彦氏と共に自然塩復活運動のリーダー的存在であったのが、今回紹介する医学博士・牛尾盛保氏です。牛尾先生は日本医科大学を卒業、東京・厚生荘病院の院長を歴任され、桜沢如一氏の主宰する日本CI(自然食普及会)の副会長を務められ、この会が目指す「食養料理」を厳格に実践されていました。そして一九七二年、全国の塩の実態を調査するために「食用塩調査会」が日本CIの中に設置されると会長に就任し、自然塩復活運動に本格的に係わることになります。「食用塩調査会」の発足の経緯をもう少し説明しますと、全国の塩田が廃止になると化学塩反対運動が各地で展開され始めましたが、国を相手にして勝つためには科学的、生物学的にしっかりした理論付けが必要です。そのため専売公社の化学塩の分析資料を詳細に分析し、また伊勢神宮や各地の塩田で作られた自然塩などを分析比較して、さらに法律的な問題と製造法の問題などを含めた調査研究をすることが発足の目的でした。全国の塩田が全廃されてからわずか三ヶ月後のことで、その後の自然塩復活運動の核となる会の発足となりました。この調査会で牛尾会長を助け精力的に活動したのは調査部長の谷克彦氏でした。


「食用塩調査会」発足から約二年後、会の主催になる「専売塩で日本民族は滅びるのか」のタイトルで「食用塩問題シンポジウム」が多数のマスコミや聴衆を集めて開催されます。プログラムは「塩の生命―その不思議な働き」(四国女子大教授・平島裕正医学博士)、「精製されたものの害」(水産庁東海地区水産研究所長・天野慶之氏)、「一般食品と食用塩」(懐石料理「辻留」主人・辻義一氏)、「わが国における食用塩の変遷」(食用塩調査会・谷克彦氏)などです。

ここでは詳しい内容は省略しますが、この「食用塩問題シンポジウム」が自然塩復活運動の大きなうねりの起点となりました。

この中で、牛尾先生は自然塩復活運動の問題点を次のように整理しています。
1.化学塩の食用化は日本が世界で最初であること。
2.安全性の確認の実験等がなされていないこと。
3.高純度(塩化ナトリウム九九%以上)自体に問題があること。(苦汁などミネラル成分が抜かれている。味覚も悪ければ、漬物、味噌、醤油などにも効かない)
4. 製造の過程に問題があること。


牛尾先生は塩田が廃止になった約三年後の一九七五年一月に、「塩―クスリか毒か」(発行釜Q曼)という衝撃的なタイトルの著書を出版します。タイトルのクスリとは自然塩のこと、毒とは化学塩のことです。サブタイトルは「食塩に第二のPCBが‥‥」です。

ちょうどその頃PCB汚染が問題になり始めた頃で、化学的に作られた食品について第二のPCBといわれるビニールの原料・フタル酸エステルによる食品汚染が危惧されています。
この著書の「あとがき」に化学塩の問題点と自然塩の大切さが分かりやすく要約されていますので引用させていただきます。

――グァム島で孤独な生活をしていた横井庄一さんが発見され、「何がほしいか」と聞かれて答えた第一声は「塩がほしい」ということでした。人間の血液のことを「ちしを」という。「しを」がなくては生きて行けない。その大切な「しを」が化学塩になってしまった。自然な塩が日本人の必需品から消えてしまったということは、マクロにみると日本人の健康に、次の世代の人間に何らかの悪影響をもたらすに違いない。

精製されたものがいいという考え方は、玄米を白米にし、黒砂糖を白砂糖にし、塩までも約百%の化学塩にしてしまいました。我々の生命の糧である食物も汚染され、食品公害は人々の命を刻々と蝕んでいます。その結果が一億半病人、成人病の増加に拍車をかけているのです。「海」という字は「サンズイ」に「ヒト」と「ハハ」を組み合わせている。海こそ生命発生のふるさとです。その海から日本人は「塩」を作り、生命に不可欠のものとして、色々の調理に、疫病の予防に、治療にも生かしてきました。

この書物を書きながら、私は日本人の健康を祈り続けてきました。この書物を活用し、赤穂の天塩を用い、一人でも多くの人々の健康・幸福に役立たせていただければ、著者としては最高の喜びです。――

この文中で赤穂の天塩とあるのは、輸入天日塩ににがりを添加した「再生自然塩」のことで、専売法に触れない範囲で特殊用塩として販売することを認めさせた自然塩復活運動の最初の成果といっていいものですが、これもあくまで妥協の産物で、本来の自然海塩とはまだまだ違いがありました。そして、本来の自然海塩復活に向けてさらに厳しい運動が続くことになります。


牛尾先生は一九七六年、谷克彦氏、武者宗一郎氏とともに、自然海塩の研究と実験を続けるため伊豆大島に塩の実験工場を建て「日本食用塩研究会」を発足させます。そして一九七九年には、出来た塩はすべて投棄するという条件ながら、研究目的の塩製造の許可を取得するに至ります。それは大きな成果でしたが、それから塩が本格的な自由化を勝ち取るまでにはさらに約十八年の歳月を要します。

私が沖縄・読谷村でタイル職人をしながら一人で塩の研究と実験を続けていた一九七七年ごろ、沖縄を訪問された牛尾先生を、美しいさんご礁の青い海が広がる恩納村の海岸に海水浴にお連れしたことがあります。そのとき先生は突然赤フン一丁になり海に飛び込みました。先生のことを想うとき、先生の赤フンのりりしい姿が脳裏に甦ると同時に、塩と健康について面白い話をたくさん伺ったのが、今の自分の血となっているのを感じます。



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