No.245









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●鬱蒼とした自然林の中を頭程の篠竹を掻き分けながら、独り急坂を降った。傾斜が緩むと何処からか山腹を巻いてきた仕事径にヒョイと飛び出た。折られたばかりの水楢の枝が落ちていた。「居るな!」と儂は独りごつ。柴栗を食ったと覚しき色相いの真新しい黒介の糞を跨いだ。近くに栗の殻が散乱していた。傍らの大木を杖でポンと叩くと、篠竹の中でガサッと大きな音を立てて奴は逃げた。次の瞬間ガオガオガオ…と吼えながら弧を描いて舞い戻ってきた。仁王立ちとなって儂の行く手を塞いだ。細身の、まるで黒豹のように精悍な肢体だ。幸い十メートル近い距離があった。「ヨーシヨシ、おいでおいで」。儂は右腿を叩きながら、いつもするように話し掛けた。「お前の餌を盗ったりはしないさ」と。だが奴は瞬時も目線を逸らさない。睨めっこが長引いた。仕方なく、遂に儂の方から静かに退いた。こんな御対面はこれが二十六回目だが、逃げた奴が戻ってくるなんて初めてだし、儂の方から退いたのも初めての事だ。二十六回目にして初めて負けたなあ…と後々悔しさが募る。それは兎も角、山で拾ってそのままコリコリと齧る柴栗の食感は(黒介ならずとも)最高と思う。スーパーなどで見る形だけ立派な栽培ものには殆ど興味が涌かない。かつては儂も赤坂や銀座などで栗菓子をよく買ってたべたし、今でも旅の土産に小布施の栗菓子なんぞ戴くと、思わず顔を綻ばせてしまう。だが山中で二粒三粒コリコリとやりながら、儂は唐突に考えた。葡萄でもメロンでもトマトでも…人は何故不自然に甘く改Xしてしまうのだろう。苦いものは苦さが、酸っぱいものは酸っぱさが、淡い味はその淡さ加減が儂には一番美味いのだが――。

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