No.253






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●小径すらないどうでもいいようなクソ尾根を下って、寂れた峠越えの道路にとび出た。暫く下ってから出合うはずの小さな村営バスを拾うつもりでいたが、時間が合わないので、路線バスが通う街道までの二時間をテクテクと歩くことにした。最初の集落に差し掛かると、庭に設えたカマドで砲丸のような蒟蒻玉を沢山茹でる母・娘に出会った。初めて見るその光景に儂は興味をそそられた。気心のよい話し好きの母・娘だった。もっと話していたかったし、願わくは蒟蒻玉の一つもセシメて帰りたかった。だがその日の最後のバスを掴まえるために、あと二十分の道程を急がねばならなかった。後々、彼の蒟蒻玉に未練が残るなんぞ思いも寄らなかった。
●蒟蒻なんて変な食いもんだぜ…と思うこともある。だが、そんな変なもの≠ェ儂にとっては幼い頃よりの好物だったようだ。例えば正月の御節などは、煮染めの中の蒟蒻ばかりに箸を向けていたような気がする。今もミズトリのトモ(ツレ)に…生芋の板蒟を買ってきて自ら調菜したりする。例えば采の目に刻んで極々薄味に、あるいはまた人参・牛蒡共々拍子木に切り薄めにサッと煮たり、蓮根・筍・人参・牛蒡・ある種のシメジ・フィッシュケーキなどの中から有り合わせの三品を選び、蒟蒻共々小さめの乱切りにして、前者よりは濃いめに、しかし筑前煮や煮染めよりは薄味に仕上げて、「クピッ」とやりながら摘まむわけである。アツアツの飯には塩気の効いた珍なるものを載せて喰いたいが、清酒には薄味の肴がいいなァ…と、還暦を過ぎる頃から考えるようになった。砲丸のような手作りの蒟蒻玉との思わぬ場所での思わぬ再会については、字数が尽きたのでまた次号でのココロだ。

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