新しい年になって、うちでほっとくつろげるのは中旬をすぎてから。一月十日前後に、大勢のビュフェパーティをするせいだ。友達五十人に声をかけて誘うと、結果は三十人ほどのお客が、午後いっぱい、八時頃までうちじゅうに溢れる。
ビュフェだから気楽だけれど、お料理は人数分ではダメ。余分に用意しておくのがビュフェの基本だ。これは中国風の招待哲学かもしれないが、お客がいるのにテーブルが空になってはいかにもショボン、帰り時間にも料理が食卓に輝いていなければ。心得た親しい友達は、好みの料理をしっかり持ち帰る。
そんなわけでクリスマス頃からメニュを詰めはじめ、全体のプランを立て、買う品のリストをつくって注文し、料理の下準備にかかる。パーティまで五日の余裕が欲しいのに、たいてい最後の四日はキッチンで一日中立ち働いて「新年ツカレター!」になる。
パーティのあとはお礼の電話やカードがきたり、アミと二人で反省したり、これまた多忙だ。電話ではおしゃべり雀に変身する。
「お宅は場所が便利だし、ボロ家だから、みんなが気軽に集まるんだよ」と古い友達。
「もう始めて四十年じゃないかな」別の男が言う。
「最初は年も若かったし、お料理なんていい加減だった」と私。料理不得意時代には、若い秘書娘たちの手づくりや、友達がうちで作った炊き込みご飯の失敗で慌てたこともあった。遅れてきた彼女は、あわてて電気釜にお湯を注いだのだ。
「あなたもいまは料理うまくなったよね」ニックネイム、ホラ吹き男爵がニヤニヤしながら褒めた。
「昔とは、おサルが料理するぐらいちがうわ」私は遠慮なくうなずいた。私にはアミという上等な料理人もいる。そしていまはロブション、コルドンブルウ、〈開新堂〉の山本道子風、イタリアンなど自由自在。でも結局このパーティが続く理由は、こちらの努力のせいだけじゃなく、来てくれる友達大勢がいるからだ。
「こんなことでもないと友達とゆっくり会えないからね。外の会は半分仕事でしょ、時間限られて落ち着かないし」と言ってくれる。
「ここにくるといろんな人に会えていい」という人もいるけど、私のパーティの原則は、仕事だけの関係は持ち込まないこと。友達とのつきあい、つまり気軽な社交であって、異業種間交流ではない。
「よろこばれる割に家によんでくれる人、日本て少ないわね」と思い出すようにアミが言った。
「ひとの家の食事って、いろんなことが参考になるのにね。だから西洋人て、パーティ上手になるんじゃない?」
考えると、両親はひとを家に招いていた。戦前の笄町の洋館にも、戦後の永福町の和風を改造した簡素な家にも、その後の松濤の広い家にも。家の「つくり」は関係なかった。育った環境がその後のライフスタイルを決めていくから、私のパーティ好きは、親の影響があるにちがいない。 |