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行きつけの店が、ふっと消えるとショックだ。
『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のように。
そこは小さなうどん屋さん。京都の祇園清本町にあった。車の入らない小路は「切り通し」と呼ばれて、二十歩もあるくと浅い流れの白川にかかる巽橋。橋を渡ると三叉路の角に小さな祠があって名前は辰巳大明神。舞妓さんが歩く観光ポスターでおなじみの昔ながらの風情の残る場所。こぢんまりと清々しいお店は、私にはアリスのお伽噺みたいに、いまの京都から離れて見えた。

その昼どき、私はアミと〈萬樹〉の前に立った。格子戸はぴたりと閉じている。萬樹と黒々と墨で書いた看板も、店先にない。
「電話しても出なかったはずね!」
若夫婦だけでやっている萬樹、そのおかみさんの具合がわるいため、営業時間を短くしたことは知っていた。何か事情があるのだろう。
「たいしたことないと、いいけど」
「早く直って、またやってほしいなあ」二人で顔を見合わせた。萬樹は、おひるに寄って食べるのに最高の〈おうどんやさん〉。安くて、おいしく、しかも上品。箸休め風のお料理もあって、これがまたとびきりおいしい。夫婦で商う店の、夫はうどんを打ち、妻は料理を受け持つ、おしどり作業も気持ちよかった。うどん屋につきものの、雑駁さは露ほどもない。

私たちの旅は、なかでも京都は、予定の中心を食べる店におく。真っ先に昼と夜の料理屋の予約をとり、それを中心に前とあとの、訪れるお寺や歩く道筋を考える。その日は、出張でほかの土地から乗った列車を京都で降りた。途中から萬樹にかけた電話に応えがなかったのだ。
あきらめて、ほど近い祇園末吉町にある割烹〈さか本〉に行った。さか本は永年ひいきの店で、そもそも萬樹はさか本で知ったのだ。「ええ、おかみさんが体をこわして閉めたようです」ということで、それ以上はわからなかった。好きだった風景の見える窓が突然ぴたっと閉められた気分だ。

ずいぶん遡るが一九九四年の春「ご馳走の手帖」に、さか本のお料理を書いた。白川が窓の下を流れるお店で、春は窓いっぱいにしだれ桜が、ストロベリーシャーベットのような雲をひろげる。そこは祇園のお茶屋〈松八重〉の女将さんの紹介で行って以来のなじみの店。好きになっていつも行く店は、味のよさ、そして主人や女将さんの人柄のよさ、そのハーモニーだ。それは食べる者にとっての桃源郷。
いつのまにかお昼をまわり、主人が若衆に取りに行かせたのが、薄味のきざみうどん。そのおいしさに、アミと二人「おいしい! どこの?」「すぐそこの萬樹さんどす」。以来、京都に行けば必ずお昼に寄る、気に入りのお店になった。

ここのきざみうどんは、ほっそり、つるりとして腰がある。薄味のおつゆは明るい色の琥珀みたい、きれいに澄んで熱く、細くきざんだ薄上げと九条ねぎがたっぷり載って出される。
「シンプルなきざみを、最高の味で出すのってすごいわね」「いまは飾り過剰をよろこぶお客が多いのに」私はそのさりげなさを、若夫婦の審美眼と自信のあらわれと思って好きだった。 
味だけで勝負するのは今どきむずかしい。これ見よがしに飾ってお客を惹き付けようとする店が多く、味がよくても私は次は行かないが、雑誌ジャーナリズムは派手な見かけに群がりやすい。

萬樹で出す小さな一皿には、冬はほうれんそう、夏は茄子のおひたしがある。蒸しどりはたいへんやわらかく、味わいよく、どうすればこんな風にできるのか、訊いたことがある。〈鳥熊〉という店のを使っています、と女将さんが軽く言い、私もそこは、八坂の搭の下の路地で見知っていた。あるとき蒸しどりが献立から消え、残念がったら、鳥熊が廃業して、もういいトリが手に入らないので、ということだった。

700キロ、山川越えて再会のおうどん


そのひいきのおうどん屋さんが消えた。永田昌彦、育子さん夫婦はどこにどうしているのか? そのうち、こちらも大事な猫の数が増えて四匹になり、泊まりがけの遠出がしにくくなった。萬樹の行方は薄闇に消えたままだった。

数日まえ、夕刊を拡げていたアミが声を上げた。「この人、萬樹のこと書いてるわ!」
「えっ!」私は彼女の手もとの署名コラムを覗きこんだ。そこには彼も萬樹びいきで「京都の昼は萬樹のうどんと決めていた」(彼の好みは釜揚げ)とあり、店が仕舞ったのを惜しんでいた。

つぎの朝、アミがお日様みたいに私の寝室に現れた。私はまだ眠い目。横の椅子に積み上げたクッション上の猫ティティもぼうっとしている。
「萬樹をサイトで見つけたのよ!」エライ! と私。
「岡山県の山の中で夫婦で暮してるの。インターネットでおうどん取り寄せられるのよ!」
こうして、萬樹は復活した。留守番電話に残したら、翌日電話がかかってきて、電線を通じて再会をよろこびあった。辺鄙な山中に犬や猫ともどもしあわせに暮しているそうで、サイトを開くと山並みにかかる虹や、樹々の枝についた氷、足下に咲くスズラン、暖房用の薪ストーブ、山の中の厳しくも愛らしい暮しを見せている。

待望のおうどんが届いた。いかにも萬樹らしい行き届いた包装に、調理法のくわしい説明書入り。朝から軽めにして待っていたので、まずは、すうどん。夜はきざみうどん。萬樹はオーガニックの材料を吟味して使っていて、うちの好きな品は萬樹も好きらしいとわかった。
アミが大鍋を煮立たせて時間きっちりに仕上げたのを、待ち構えて、さっと口に入れた。時空を超えて待っていた、幸福のひとときが流れた。

萬樹のおうどんは、いま取り寄せで、材料から作り方まで萬樹流に食べられるのがうれしい。水は山の清水を使い、塩は自然の海塩。小麦粉は国内産の石臼挽き、出汁は七、八種類を時季に応じて配合を変えて使うなど、丁寧に書いてある。お店がなくなっても、そこの品が食べられるのはネット社会の強さと知った。個人のお店が続くことを願う私にとって(たぶんあなたにも)、暗い空にひと筋の陽光を見た思い。


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