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安い品物が流通するのはいいことだ。でも安くてもケチくさく暮らすのはイヤ、モノが悪くてはさらにノー。高けりゃ上等、とプチブル根性をくすぐって割高品を買わせる戦術は過去のもの。常にモノの質と価格に目をきかせていなければ。そこが今、私たちの目のきかせどころだ。守りの姿勢に落ち込みたくない。

アメリカでも、スタイリッシュにビンボー生活を――と新しいライフスタイルが広がりはじめている。タイムやフォーチューンを開くと、消極的倹約でなく、積極戦術を訴えていて「経済が下りのエスカレーターなら、逆に上りのエスカレーターで上がって、いいとこ取りをしよう」という積極戦術があちこちに出ている。
これだ! 私の好きなのはポジティヴな方法。

タイムのあるページには、上等の品がセールになったところを買う、衣類でも、食料品でも、とある。投資する余力があれば、必要なのに買いそびれていた黒のコートが値下げになったら、いま春だって買うのがかしこい。レストランも気取ってなんかいられない、グラスの水は、ミネラルの瓶でなく「普通のお水でいいわ」と言って平気。「来てくれるお客さまはカミサマ」だそうだ。
たしかに東京の私の住むエリアでも、食料品のひいきの店が、いい肉をセールにすることが増えたような気がする。

「スタイリッシュに倹約」は、不景気のグレイをピンクに変えてくれる。そんなわけで、つい数日まえ用事の帰りに、予定外にグロッサリー・ストアに寄った。見ると、ロースト用のオーストラリア・ビーフがスペシャルで出ている。赤いおいしそうなふっくらした肉の塊が、タコ糸でしばってある。
「あ、買おう!」私はためらわずカートに入れた。
「すごいママ、ぜいたくね」アミが言った。
「でもスペシャルよ。百グラムが二百二十二円よ。リブロースなら百グラム五百円。これは八百五十グラムで千八百円。すごいじゃない。やりたかったローストビーフにチャレンジするわ」

というのも、この店は少しまえスペシャルで、和牛で焼いたローストビーフを、普段の百グラム六百円を四百円で出した。ローストビーフは高い肉料理の代表だから敬遠してたけれど、試しに買ったらおいしさに感激。私の感激なんてちょろいものだ。

でもこれを汐に、私の野心はさらにひろがった。和牛のローストビーフは、出来たてはいいが、冷蔵庫に入れると脂が白く固まる。赤身の外国ビーフで試そうと思っていた矢先の、スペシャル・オッファーだ。数日にわたって食べられるローストビーフを、格安肉で焼くなら、倹約、そしてゴージャス。猫なら通り道にオカカが落ちてたら見逃さない。私だっておなじだ。

チャレンジでハッピーな1週間


ローストビーフはむずかしい、と思いこんで、私はやったことがなかった。うちで得意なのはロンドン・ブロイルで、これはロースト用の肉の塊をマリネしてから、鉄のグリルパンで焼く。オーヴンを使わない、ローストビーフのファスト・クッキング。
「わー、調べなくちゃ!」私は原稿をそっちのけ、シーツのアイロン(これも倹約のひとつ)もそっちのけで、本の山をひっくり返した。
なんと、ローストビーフは意外と少ないのだ。

料理本のバイブル、ラルウスの英語版は、ロースティングとして調理の基本を載せているけど、ローストビーフの作り方はない。
アメリカのバイブル「ジョーイ・オブ・クッキング」の全八百八十ページの中にも、ローストビーフは基本だけ。糸でしばること、高温で焼き、十分ですぐ下げること、一ポンド当たり十八分から二十分焼く。このシンプルさは、なぜだろう?
「日本のお料理の本にお魚の焼き方が詳しくのってないのと同じじゃない?」とアミ。そうか!

わかりきってる石炭ストーヴ時代、いやいや、炉で焼く時代からの伝統的料理なのだ。暮しの手帖の「ロイヤルホテルの家庭料理」に、やっと詳しいのがあった。シェフ、米津春日さんのレセピだ。
中のジュースをださないよう、そしてほどよくミディアムレアに仕上げるために、回りを牛の脂ですっかりくるむとある。フリーザーにテリーヌ用のブタの背脂があった。それで回りをくるんで、タコ糸でしばった。ハラハラ、ウキウキの二十分ほどで、オーヴンから取り出し、その晩はローストビーフ。

翌日は連休初日。ふたたびローストビーフ・ディナーだ。冷蔵庫から取り出してスライスしてわかった! 赤身はあくまでやわらかでジューシィ。和牛より、外国産のほうが向く。和牛だと、霜降りの脂が固まって白くなり、肉のやんわりさが消え味もしつこくなる。そもそもヨーロッパやイギリスの料理なのだ、彼らの国の牛肉を使うのが当然じゃないか。
「エコノミーアってこれね!」アミが叫んだ。
エコノミーアはアラブ人英語で、安い! トク!の意味。アガサ・クリスティの「オリエント発掘旅行記」に現地の雇われ男が連発し、おかしくて、うちの気に入り語。トク、なんて言うよりよっぽどチャーミングじゃない?
「ローストビーフがあると、らくねー、サラダとスープがあればすんじゃう」
「そ。無責任感覚がうれしい。今晩はローストビーフ・サンドゥィッチのオン・トーストにするの!」私は言った。「それにミチコ風にぎり寿司もやってみる」 スプーンでご飯を型づくって、しそ、ローストビーフ、しそ、と重ねて粒マスタードを添える、簡易ビーフ寿司で、お気楽サパーだ。本来は開新堂の山本道子さんのレセピで、もっとちゃんとやるものだけど。

アミには別の野心があって、 「明日は、道子さんの『ヴェトナム風牛肉そば』にするわ」とはりきっている。おそうめんをチキンスープとニョクマムとビーフの取り合わせでエスニック料理に変身させる。黒胡椒をきかせ、生玉ねぎとコリアンダーを載せる。想像だけでキューンとくる。
「私の分も忘れないでね」無精の母親はあわてて念を押した。


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