315


風邪をひくのは寒いときと相場がきまっている。
だから、半袖Tシャツの日がつづいたあと、やたらくしゃみが出た私は、やだわ、花粉症だわ、といいながら、一日がかりで書斎のあちこちをかきまわしていた。探し物である。
相手はうすべったいモノ。コンピューターにソフトをインストールするためのCDを七、八枚。ところが、あるはずの引き出しにまとまっていない。やっと全部そろったのは夜中で、私はへとへと、そして花粉症でなく、本物の鼻風邪とわかった。万葉集の貧窮問答歌がぴたり表現した「鼻ビシビシ」でケチョンとする。ヒャー風邪だ! とあわてて寝たけれど、翌日は七時半には起きだした。

〈アップル銀座〉に行く予約がとってある。前の日メモリがいっぱいでダウン寸前のiMac(デスクトップ)を、調整できるか持ち込んだけれど、新しい機種に替えたほうが効率的と判断し、その場で次世代マシンを買い、中身の入れ替えを頼んだのだ。アップルには、そのサーヴィスがあるのがありがたい。そのためには、インストール用のCDを届けなくちゃ。
「ママ、よかったわね。バースデイ、欲しいものなんにもないって言ってたから、これがプレゼントじゃない!」 アミが言った。
新しいマシンがやってくる! それは満月が昇るのを待つ気分。月〈moon〉はワクワクと関連するらしい。over the moonは「すごくハッピー、おおよろこび」のくだけた言い方だし、the moon struckは映画の題にもあるように恋に夢中になること。
思い出すとギフトでは親で同じ経験をしていた。
「ママ、お誕生日なにがいい?」私が訊くと、
「いらないわ。ほしいものないのよ」とママ。
「だってそれじゃつまらないじゃない」
若い私には、そんな心境が理解できない。当時よそにない斬新な品をそろえていた渋谷の西武で、ランヴァンの紫色のストールを、別の年は、ジョージ・ジェンセンでシルヴァーのタマネギ型のペアのキャンドル・スタンドを選んだりした。

いま私も、モノだらけ、これ以上増やしたくない、ほしいもの無い、の気持ちがわかる。
日々の暮らしで何がほしいか、何が好きか、必要度は? ひとによって、家庭によってさまざまだ。
「うちじゃ、だんぜんコンピューターね」
「それと、生きものだったら猫」
この二つは、無生物と生物だけれど、似ている点もある。どっちもよく動く、そして私たちによろこびを与えてくれる。これ無しでは一日も楽しく過ごせない。

コンピューターの値段は、今年と去年では驚くほど安くなった。アップルは高いランクにはいっているが、それでも安い。たとえば容量の大きい二十四インチのデスクトップは、去年の小型のラップトップの方が高い。アミがビックリ眼で言った。
「コンピューターにくらべると、TVって高いわね!自分じゃ働かないで、受け身に映像を流すだけの道具なのに。しかもろくな中身じゃないのよ」
「ほんとね! コンピューターは積極的に働くマシン、こっちから情報をいくらでも取れるけど、かたっぽは流れてきたものを吐き出すだけ。それで十何万もするなんて」

〇六年のクリスマスイヴにパチンと消えたうちの古いTV。四か月無しですませた後、〇七年の連休まえに薄型を買った。人々が買うスタンダードにくらべると一番小型の三十二インチ。うちではTVの順位は低い。

見かけは地味・・・・でもうっとり


鼻風邪というのは始末がわるい。熱っぽい程度でも、鼻ビシビシでは行動できない。アップルに行くときも、私はクリーネックスの箱と、くずかご代用の紙袋を持っていった。家ではベッドにころがって、テルモスの熱い紅茶を飲みながら(水分の補給)、読書しているのがいい。
「ママにスープつくってあげるわ。風邪のときはスープがいちばんでしょ」
「うれピー!」私はすかさず甘え声を出した。こういうときは、猫をまねるに限る。
「マリオのガーリック・スープでどう?」
「いいな、あれいちばん純正ガーリックだから」
マリオのイタリア料理は、一九七九年に草思社が六巻のシリーズで出し、左右のページごとに、料理の作り方と大きな写真があって作りやすい。スープ、パスタとピッツア、前菜と肉、卵/野菜/魚などあって、私の気に入り本。アマゾンで検索したら「スープ」は売っていなかった。

「ママ、ご飯よ!」行くと、アミがお鍋の蓋を開けてみせた。「ガーリックやめて、マリオのカッチョ・カヴァッロとお米のシシリー島風スープにしたの。こっちのほうが、お料理っぽいから」
「すごいラッキー! 風邪ひきのときにカッチョ・カヴァッロがあるなんて」
どこにでも売ってるチーズではない。道東の興部にあるアドナイチーズ工房の品だ。網走のずっと北、オホーツク海沿いの、アンドリュウ・ワイエスの絵を思わせる風景の土地。以前行ったことがある。

カヴァッロはイタリー語の馬、カッチョはチーズだ。増井和子さん他の『チ
ーズ図鑑』によると、このチーズの形が、馬の両側にぶら下げた荷物の包みみたいだからという。上部をひもでくくって二個一組でぶら下げてつくる、その形状からきた名前。

マリオのスープはシンプルだ。タマネギ一、ベーコン七十グラム、ガーリック一片をチョップし、オリーヴオイルでよくいためる。ブイヨンを一・五リットル注ぎ、アスパラガス五百グラムを入れ、二十〜三十分煮る。最後にお米を半カップ入れ(好みで カップでも)お米がアルデンテになるまで煮る、あと十分という頃、カッチョ・カヴァッロ百グラムを適当に切って入れる。なければ溶けやすいチーズを。

「『スープと復讐は熱いうちに』は、マフィアの言葉、彼らの故郷シシリー島は、アスパラガスがヨーロッパでいちばん早く穫れる」土地。高値で輸出されたあと、土地の人たちが楽しむスープがこれ。私たちも初夏の安くなったアスパラでトライを。

.
.


Copyright (C) 2002-2009 idea.co. All rights reserved.