49






お蔭様で、私が塩の研究と実験をはじめて今年で三十五年、そして「粟国の塩」の会社は創立十五周年を迎えることが出来ました。本当に多くの方に支えられての道のりだったと感謝しております。そこで私が「塩の道」に入るきっかけを簡単にご紹介したいと思います。そしてこれが戦後日本の塩が辿った道でもあるのです。

塩との出会い
私は、戦前の昭和十二年サイパンで生まれ、戦後沖縄に引き上げてきましたが、小さな頃から体が弱く、学校も休みがちで病院にいくほうが多かったのです。その病弱を克服するため体質改善することを考えて、青年になってから自然食サークルやヨガのサークルに精力的に通いました。そして体質改善することが自然治癒力を高めることを知り、自然食の研究に熱中しました。自然食の研究をするうち塩が身体にとって重要な働きをすることを初めて知ったのです。このことが塩に対して興味を持つきっかけとなったのです。確かに沖縄では古くから食べることをクスリと考えて、料理の中心に塩があったのですが、その塩の正しい働きについてはよく知りませんでした。そして学ぶ必要があると考えたのです。

すべての塩田の廃止
その頃、本土では、一九七一年に政府は塩の安定供給を御旗に臨時措置としてイオン交換法で作られたナトリウム九十九・九%の化学精製塩を専売とする「塩業近代化臨時措置法」を施行しました。沖縄では、まだ昔ながらの塩田で塩を作っていましたが、それもつかの間で、一九七二年に沖縄が正式に日本に返還されると沖縄にも日本の法律が適用され、沖縄に数え切れないほどあった塩田はすべて廃止されてしまい、伝統の自然塩はすべて姿を消してしまったのです。

「すくがらす」が腐った
変色したすくがらす(右側)〈写真・松村久美〉
専売の食塩を使ううち、様々な問題が出始めました。まずは、沖縄の伝統食品である小魚の塩漬け「すくがらす」に異変が起きたのです。「すくがらす」は、ある時期に大量に獲れるため小魚を塩漬けにしてガラス瓶にいれて保存食にしたもので、普通はピンク色をしているものが、真っ黒に変色してしまったのです。はじめは原因がよく分らなかったのですが、調査の結果、新しい化学精製塩を使ったのが原因だと分ったのです。そのほかにもスーチーカー(豚肉の塩漬け)が腐ったり、スヌイ(もずく)漬けがうまく漬からない、味噌がうまく出来ない、昔から塩をクスリ代わりに使っていた人達から新しい塩を使ったら、傷が治らないなど多くの問題が噴出し、ヤマトマース(化学精製塩)はドクではないかという噂が沖縄全土に広がっていったのです。

恩師との出会い
その頃、本土ではすでに各地の自然食の会、主婦の会、消費者の会などを中心に化学精製塩の反対運動が立ち上がり始めていました。沖縄でも、すくがらすの事件をきっかけとして、製塩業者や消費者の会、自然食の会を中心に「自然塩を守る会」などを結成して運動を開始していました。
その頃私は、タイル貼りの職人の仕事をしながら「ゴザ緑の会」という自然食の会で活動していました。そして塩に関心を持ち勉強していましたので、沖縄の塩田がすべて廃止になったうえ、すくがらすの事件を知り、大きなショックを受け、直ちに自然塩復活の運動に参加することを決意したのです。

揚げ浜式塩田での過酷な作業。恩師谷氏(写真奥)と著者〈写真・松村久美〉

沖縄から自然塩が消えて三年後の夏、沖縄・読谷村で自然塩復活を目標に全国から有志が集まり「第二回塩作りワークキャンプ」という勉強会が開催され、私は手弁当でそのキャンプに参加しました。そこで私の人生を決定づけ、後に恩師となる人物に出会ったのです。その人こそ、このキャンプのリーダーであり食用塩調査会の調査部長の谷克彦氏でした。
そしてワークキャンプから二年後、谷氏と沖縄で再会し、太陽熱と風だけを頼りにした「タワー式塩田法」という完全天日製塩方式の研究と実験という悪戦苦闘の日々が始まったのです。
その人の生きる道を決め、または人生を変えるような出会いは誰にでもあり、それが物である場合も、人であることもあると思います。
私の場合は、塩であり、谷氏であったのですが、自然塩製造禁止という時代背景も大いに関係しているのではないかと思っています。



.
.

Copyright (C) 2002-2009 idea.co. All rights reserved.