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「いい塩をつくりたい」
〈1〉



調味料として料理に使う塩は、人の生命ために不可欠なものでもある。
「健康によく、美味しい塩が、いい塩」
――言葉で言えば簡単であるが、この“いい塩”を実現させるために半生を塩づくりに賭けた塩職人がいる。塩職人とは、“いい塩”とは何であるかを知り、“いい塩”を作る技を持った人のこと。
これは“いい塩”を完成させるまでの塩づくりに賭けた一人の塩職人の道のりである。


激戦地サイパンで生まれる。
日本に戦争のきな臭いにおいが漂いだした、昭和十二年十一月二十六日、幸信は小渡家の八人兄弟姉妹の五男としてサイパンで産声を上げた。当時多くの沖縄出身者がサイパンに移住しサトウキビ工場で働いていたが、幸信の父も同じであった。
日本が真珠湾を急爆して、米国に宣戦を布告したとき、幸信は四歳であったが、サイパンが実際に激戦地となったのは終戦も近い昭和二十年頃からで、その頃、幸信は八歳になって小学校に通っていた。戦況は悪化を辿り、日本軍は玉砕、多くの民間人が死傷する中、幸信も二人の兄妹をなくした。「米軍の攻撃から逃げ惑い、やっとたどり着いた防空壕に逃げ込むと、そこには日本兵がいて、追い出されてしまった。またある日、ジャングルをさ迷っていて見つけた缶詰を拾っていると、いつの間にか米兵に囲まれていて捕らわれてしまった。缶詰は罠だったと知ったが、米兵は水や食べ物をたくさんくれるので、米兵のことを味方だとずっと思っていた」。幸信の心に刻まれた戦争の記憶である。


終戦の翌年、沖縄に引揚げる。
昭和二十一年、幸信が小学校三年のとき、小渡一家はサイパンから沖縄に引揚げることになった。沖縄への引揚船は、戦車などを運搬する大きな米軍の輸送船で、客室などは無くだだっ広いだけの空間に大人も子どもも多くの人が詰め込まれた。船の速度が遅いために揺れもひどく多くの人たちがひどい船酔いに苦しめられた。引揚者は、捕虜同然の扱いであった。一週間以上かかって、やっと沖縄の島影が見えてきた。


米軍施設で働く。
終戦直後の沖縄は激戦のあとも生々しく、激しい爆撃のため家も木々もすべて焼き尽くされ赤土が丸出しの焦土が続いていた。
繁華街には英語で書かれた看板を掲げた店が建ち並び、コカ・コーラや軍用の缶詰が売られ、駐留していた多くの米兵がたむろしていた。
幸信は、引揚げてから小学校三年に編入したが、体が弱かったので病院通いが多く、学校は休みがちであった。何とか中学に進んだが、午後の授業は殆どサボって仲間と山の中で遊んでいたという。
その頃のあだ名は「ガリー(痩せっぽち)」、そのあだ名の通り体は小さく痩せていたが、売られた喧嘩は買って出るほど、気が強く負けず嫌いだった。
中学を卒業した幸信は、働くところを探した。当時、沖縄で働く場所といえば、米軍施設が殆どであったので、米軍施設で働くことになった。窓拭きが主な仕事で、ある日、窓を拭いていると、沖縄を訪れたニクソン副大統領を偶然に窓の外から見かけたことを鮮明に覚えているという。


タイル貼り職人となる。
米軍施設で働いていた頃、本土から来たタイル貼り職人に家を貸していた縁で、タイル貼り職人と仕事の話をするようになった。もともと器用でものづくりに興味のあった幸信は、結局そのタイル貼り職人に弟子入りする。タイル貼り職人の仕事は、小さなタイルを絵や模様などを作りながらビルの壁などに貼り付けて行く仕事で、根気と体力、それに美的センスが求められた。そういう意味で幸信はこの仕事が自分に合っていると思っていた。さらに技を磨くため親方について徳島に四年、東京に五年と住み着いて日本全国を修業行脚した。その後、熟練工として独立し「小渡タイル工業」を設立、タイル貼り職人として技能が評価され、数々の技能賞を受賞した。


塩の大切さを知る。
幸信は、小さい頃から体が弱く学校も休みがちで病院通いをしていたことは、前にも紹介したが、病弱を克服するために体質改善をすることを真剣に考えて、自然食サークルやヨガのサークルに熱心に参加し始めた。その中で、温冷浴を提唱し、
ヨガを実践する寺島文夫が主宰する「緑の会」の沖縄支部「コザ緑の会」に参加、後に会長を引き受けるほど精力的に活動した。
体質改善が進んでくると、自然治癒力が高まってくることを知った。そして更に自然食の研究を進めていくと、塩が体にとって重要な働きをしていることがわかってきた。
確かに、沖縄では古くから食べることを薬と考えて、料理に塩が上手に使われていたが、塩の働きについての正確な知識を持っていなかった幸信は、塩について勉強を始めた。これが、幸信と塩の最初の出会いであった。

初回はプロローグである。生い立ち、そしてタイル貼り職人として成功し、病弱だったからこそ、塩には大切な働きがあることを知った、塩との出会い。サイパンで戦争を体験し、沖縄に引揚げてきてからも、今日まで戦争のことから解放されていない。その戦争への思いと、小渡さんの塩作りの目標「いい塩で世界の人を幸せに」という世界平和への強い思いとが重なっているように思えてならない。さらに、タイル貼り職人としての経験は、後の塩工場建設にも大いに関係するのである。 (取材・構成/本誌編集部)



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