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「いい塩をつくりたい」
〈2〉



前回のあらすじ――
幸信は、昭和十二年サイパンで生まれ、戦後沖縄に引揚げたが、小さい頃から体が弱く、学校も休みがちであった。その病弱を克服するため体質改善を目的に自然食や、ヨガのサークルに参加して精力的に活動するうちに、塩が体に重要な働きをすることを知った。それが塩との最初の出会いであった。

全国すべての塩田が廃止される。
幸信が、塩が体によいことを知り、塩に関心を持ち始めた頃の一九七一年二月、「塩業の整備及び近代化の促進に関する措置法」が国会を通過し、「イオン交換膜式製塩」で作られた化学精製塩が専売されることになった。イオン交換膜式製塩とは、海水を濃縮して作られていた従来の伝統的な日本の製塩法とはまったく異なり、海水に含まれる約三・五%の塩分のうち、主に塩化ナトリウムだけを電気的に取り出すという、化学精製塩といわれるものであった。海水を入れた水槽に、プラスイオンだけを通す膜とマイナスイオンだけを通す膜を交互に並べ、両端に電極を置いて電流を流すと、薄い海水と、濃い海水が交互に満たされる。この濃い海水を真空蒸発缶に入れて煮詰めて結晶させるとナトリウムが純度九九・九%という塩が出来るのである。昭和三十年代の高度成長期に急成長したソーダ工業のために塩の安定供給が必要となったという背景を受け、ローコストで出来る、天候に左右されない、純度が高く安全性に富むなどのメリットがあるというのがイオン交換膜式製塩に全面移行された主な理由であった。この国策により、全国に数え切れないほどあった塩田は全廃、多くの製塩業者は保証金をもらって廃業に追い込まれてしまった。そして国民は、明治三十八年以来、塩は専売制が採られていたため、この化学精製塩しか手に入らなくなってしまったのである。

本土で、この「塩業近代化臨時措置法」が施行された一九七一年には、沖縄はまだ米軍の占領下にあり、日本の法律は影響が及ばなかった。しかし、それもつかの間、翌年には、沖縄は日本に正式返還となり、本土復帰すると同時に、日本の法律も適用されることとなった。
それに伴い、沖縄でも無数にあった塩田がすべて閉鎖されてしまった。

島豆腐にスクガラス漬けを載せたもの
「スクどうふ」と呼び、泡盛の肴として人気


スクガラスが腐った。
沖縄でも本土復帰と同時に、塩田がすべて閉鎖され、三百年以上も続いた自然製塩に終止符が打たれ、手作りの自然塩は姿を消すことになり、沖縄でも手に入るのは化学精製塩だけになってしまった。沖縄では、昔から生活の中で様々な食べ物に、薬に、と塩が上手に使われていた。その一つに公設市場などで必ず売られているスクガラスの瓶詰がある。この瓶詰は沖縄の代表的な伝統食品で、スクガラスという小魚を塩漬けして瓶詰めしたものである。スクガラスは、五、六月ごろ獲れるアイゴという魚の稚魚で、この時季に大量に獲れるため、保存食とするために塩漬けにして瓶詰めにしたものである。そのスクガラスの瓶詰に異変が起きたのである。沖縄市保健所に、業者から腐ったスクガラスが持ち込まれた。「ヤマトマース(化学精製塩)を使ったら普通はきれいなピンク色をしているスクガラスが真っ黒に変色してしまった」というのである。初めは原因がよく分らなかったが、よく調べていくうちに新しく使った化学精製塩が原因であることが分ってきた。そのほかにもスーチーカー(豚肉の塩漬け)が腐る、スヌイ(藻ずく)漬がうまく漬からない、味噌がうまく出来ない、昔から薬代わりに使っていた人たちからは、ヤマトマースを使ったら傷が治らないなど数々の問題が出てきて、ヤマトマースは毒ではないかという噂が沖縄全域に広がっていった。

自然塩復活運動が各地で起こる。
本土ではすでに全国各地の自然食の会、主婦の会、消費者の会などを中心として、化学精製塩反対、自然塩復活の運動が小規模ながら立ち上がり始めていた。中でもさきがけとなって全国各地で廃止活動を積極的に展開していたのが、桜沢如一氏が主宰する日本CI(自然食普及会)であった。法の施行が一年遅れとなった沖縄でも、スクガラスの事件をきっかけとして、製塩業者や消費者の会、自然食の会の会員たちが中心になって「自然塩を守る会」などを結成し運動を始めた。その頃三十五歳になった幸信は、タイル貼り職人として会社を経営しながら、「コザ緑の会」の会長として活動していた。塩が健康に重要であることを知り、塩について勉強を始めていた時期であったので、自然塩廃止に大きなショックを受け、直ちに自然塩復活運動に加わることを決心した。

(取材・構成/本誌編集部)


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