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「いい塩をつくりたい」
〈3〉



前回まで――
幸信三十四歳、塩に関心を持ち始めた一九七一年、「塩業近代化臨時措置法」が施行され、自然塩を作ることが禁止され、全国の塩田はすべて廃止になり、イオン交換膜法で作られた化学精製塩が専売されることになった。漬物がうまく漬からないなど様々な問題が噴出し、全国各地で化学精製塩反対、自然塩復活の運動が立ち上がり始めた。

化学精製塩を調査
塩田が廃止されて翌年の一九七二年一月、日本CI(自然食普及会)の会員で、原子物理学者であった谷 克彦氏は、化学精製塩反対運動を成功させるためには、イオン交換膜法のこと、それにより作られた化学精製塩のことを良く理解しなければならないということから、それらの詳しい調査を始めた。まず始めに、イオン交換膜塩製造工場を見学し、専売公社から入手した化学精製塩の資料を徹底的に分析した。

さらに谷氏は、国に対抗するためには更なる調査研究の必要性を考えて、仲間の学者などに呼びかけ「食用塩調査会」を発足させた。その会長には、日本CIの副会長であった医学博士の牛尾盛保氏が就任した。また、食品汚染を研究していた分析化学が専門の理学博士・大阪府立大学名誉教授の武者宗一郎氏は、公職に在ったため陰ながら応援することとなった。
谷氏本人は、調査部長として全国を精力的に走り回り、その後も自然塩復活運動のリーダーとして運動に身を捧げることになるのである。

運命の出会い
その頃、幸信は、タイル工事会社を経営しながらヨガを実践する「コザ緑の会」の会長として活動していた。そして、塩が健康に重要な働きをしていることを知り塩について研究を始めていたため、自然塩が廃止されることを知った幸信は、大きなショックを受け、直ちに自然塩復活運動に加わることを決心した。

自然塩が沖縄から消えて半年後の一九七三年夏、沖縄・恩納村新栄田岬の海岸で自然塩復活を目的に全国各地から集まった有志たちにより「第二回塩づくりワークキャンプ」が開催された。目的は、新しい製塩法の研究のための勉強会であったが、参加者に正しい塩問題を把握してもらうという啓蒙の意味もあった。日程は二十二日間、地元沖縄をはじめ全国から五十名を超える若者たちが参加した。幸信はこのキャンプで率先して行動し、その熱心さを買われてリーダーを引き受けることになった。この会の全体のリーダーは、前項で紹介した食用塩調査会の調査部長・谷氏であったが、此処での谷氏との出会いが幸信のその後の人生を決定付けるこになるとは想像もしていなかった。当時、幸信は三十五歳、谷氏も同じ歳であった。しかし、このキャンプ自体の成果は、期間中に四回も台風に見舞われて実験は中々進まなかった。

「粟国の塩」の塩工場敷地に造られた昔ながらの
塩づくり体験用塩田で学生たちと塩づくりをする小渡氏

食用塩問題シンポジウムに参加
一九七四年五月、日本CI食用塩調査会の主催で、「専売塩で日本民族は滅びるのか」と題して「食用塩問題シンポジウム」が東京で開催された。
先ず、シンポジウム実行委員会会長の医学博士・牛尾盛保氏の挨拶があり、冒頭に化学精製塩の四つの問題点を挙げられた。

一つめは、化学塩の食用化は日本が世界で最初である。二つめは、安全性の確認が成されていないこと。三つめは、高純度(塩化ナトリウム九十九%以上)自体に問題があること(苦汁などミネラル成分が抜かれている。味覚も無ければ、漬物、味噌、醤油などにも効かない)。最後に、製造過程に問題がある。そして次のようにシンポジュウムの開催が宣言された。「最近に至り、私たちが問題としたことが現実のものとなってまいりました。私たちは、目の前に漂う黒い霧の解明のため、此処にシンポジュウムを開催します」。
続けて講演に入ったが、演題は次のようなものであった。
「精製塩について」、「塩そのふしぎな働き」、「食べものの精製」、「塩と料理」、「わが国における食用塩の変遷」。

当時、多くの国民はこの化学精製塩の問題に対して少しの関心すら持っていなかったが、このシンポジウムは、参加した多くの報道関係者や聴衆に対して化学精製塩に対する疑念を深め、自然塩復活の運動を盛り上げる強力な起爆剤の役目をはたすこととなった。

幸信は、仕事の都合でこのシンポジウムに参加出来なかったが、講演内容の資料を入手し熟読した。そして、ますます自然塩復活運動への思いを強くし、その実現を心に誓ったのである。

(取材・構成/本誌編集部)


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