55


「いい塩をつくりたい」
〈5〉



前回のあらすじ
自然塩復活運動のリーダー、谷克彦氏は自ら考案した「タワー式製塩法」の研究実験を沖縄で行うために、1975年6月、再び沖縄を訪れた。幸信は谷氏と再会を果たし、研究実験を手伝うことになる。過酷な条件の下での作業であったが、作業後に泡盛を酌み交わしながら語り合う「塩談議」が、幸信の人生を決定付けることになるのである。

困難を極めた復活運動
自然塩復活運動のリーダー谷氏は、沖縄で幸信と共に「タワー式製塩法」の研究実験をしながら、自然塩復活運動の活動もしなければならなかった。

活動は、国、専売公社などへの陳情、交渉、申請などを始め、ニガリを含んだ自然海塩の効能を国民に啓蒙するのが主な仕事であったが、このほかにも様々な問題が次から次へと起こっていた。特に沖縄に滞在している間に、沖縄でも問題が起こっていた。

一つは、「密造塩」を造って売る人が後を絶たなかったこと。もう一つは、専売の輸入原塩に「ニガリ」を添加した「特殊用塩」が製造許可されたが、その利権を得て、私欲を優先させようとする人々が出てきたことであった。これらのことは、自然塩復活運動の足を引っ張るような問題であったので、谷氏は問題解決に奔走した。

沖縄のとある集落では、昔からの塩田で、専売の化学塩を焚きなおした密造塩が作られるようになっていた。さらに、特殊用塩製造の許可が下り、その集落に会社が設立され特殊用塩が販売されたが、その実態は、会社とは名ばかりで、塩職人各々が塩を炊き、各々が塩を売り歩いていたのである。しかし、この地域は人間関係が複雑で、方言も通じず、谷氏としてもどうすることも出来なかった。

さらに、やはり特殊用塩の認可を取得した別の会社は、輸入原塩に「ニガリ」を添加する技術に問題があり、塩化マグネシウムの含有量が少なかったのである。復活運動のためには「特殊用塩」といえども品質のよい塩を出す必要があったので、品質の改良を求めたが利益優先を考える経営者には聞き入れられなかった。

このような問題が続き、谷氏としても自然塩復活運動を成功させるためには、沖縄で塩の品質を守らせることが重要であると考えていたが、人間関係も絡んで運動の難しさを痛感させられることとなった。「よい塩をつくるということの技術はもちろん大切であるが、単に技術だけのものではない。多くの良質の人びとを生み出し育ててゆかなければならない」と谷氏は自著「塩いのちは海から」で自戒している。

谷氏沖縄を去る
谷氏は、沖縄に来て一年後の1976年夏まで、沖縄での研究実験を続けていたが、次から次に起こる難問に、沖縄での作業の限界を感じ、一年間で沖縄を去る決心を固めた。そして、次に研究実験の拠点として伊豆大島にタワー式塩工場を作り研究実験を続けることを考えていた。幸信も大島に一緒に行くことを強く誘われたが、大切な家族を残して、一人だけ沖縄を離れることが出来ずに、やむなく断わった。そして、タイル職人として会社を経営しながら、一人で塩の研究実験を続けることを心に決め、四年後には住居も沖縄市から、読谷村に移した。

「粟国の塩」の工場に書かれた“いのちは海から”

谷氏から教わったこと
幸信は、塩の研究実験をするため谷氏と二人で一年間寝食をともにしながら、作業が終わると毎晩のように泡盛を酌み交わしながらの「塩談議」になった。熱が入りすぎ夜が明けることもしばしばであった。そのとき谷氏から受けた多くの教示は、後の幸信の人生を大きく決定付けるものとなった。「塩の命は海水に含まれている多くのミネラルのバランスにある」、「塩づくりにおいて最も重要なことは、海水に含まれているミネラル分をいかにバランスよく、出来た塩に残すかである」、「沖縄の海も汚染が進み、このままだと本物の塩は食べられなくなってしまう」、「今研究している本物の塩を世界中の人に知らせなくてはならない」これらは谷氏の言葉であるが、すべて机上の知識ではなく、毎日の研究実験が伴っての生きた言葉であり、また研究実験の目的がこれらの言葉そのものでもあった。そして、これらが集約された「いのちは海から」という言葉は、後に谷氏の著書のタイトルにもなり幸信の塩づくり人生の指標となった。

今、粟国島の塩工場の一番目立つ場所に「いのちは海から」と小さなタイルで貼った幸信手作りの大きな文字を見ることができる。谷氏との出会いがなければ、塩職人になることはなかった、そして「粟国の塩」の誕生もなかったのである。

(取材・構成/本誌編集部)


.
.

Copyright (C) 2002-2010 idea.co. All rights reserved.