ある晩、アミが浅草で開かれた投扇興の新年会から戻るなり、叫んだ。
「ママ、〈きつね忠信〉がやめちゃったんですって。会で聞いたの」
以前きつね忠信のおいなりさんを教えてくれた女性からの話しだという。夏に伝言されていたのを新年になって遅まきに言うのも、いかにも浅草的だ。
「ええっ? なぜ? いつやめたの?」
私は驚いて思わず大きな声を出した。「だってまだそんなトシじゃないでしょ?」
小さなお店が閉めるのは、だいたい加齢のせい。
「それがね、栃木に住んでるお兄さんが認知症で、シロアリの詐欺にひっかかって(新聞でも報道されていた)ひどい目にあったんですって。その後始末に、もう秋から向こうに行ったんだそうよ」
ここにも、ちがう形の高齢化の影響があった。
きつね忠信の店は上野で、うちから遠い。おいしくても、行ったついででないと買えない。去年の夏まえからごぶさたしていた。行けばいつでもある、と思っていたのに。
翌日、日本郵便のあちこちに電話してみたけれど、移転先の届けが出ていないという。
「でも、移転先も知らせないで閉店するなんて」
私たちは首をかしげた。
「きっと、片付いたら戻って再開するつもりじゃない?」と先に希望を持つことにした。
するともうひとつ、パンチが待っていた。愛用の高橋納豆が、三月いっぱいで店をやめるという話し。まだ若い主人がひとりでやっていて、非常においしくて、しかも安い。一つ百四十円。注文すると、彼は被布を着て向こう鉢巻き、白い軽自動車で配達してきた。
いま納豆は上等風の包装で、デパートでは三百円など、もったい顔でケースに納まっている。
納豆の基本は豆からはじまる。高橋納豆の大豆は「北海道秋田」という豆で、芽が黒い。実際は茶色だが、習慣で「黒」というそうだ。いま大手が使う大豆は白芽で、これは値段も安い。
「なぜおいしい黒芽の大豆をやめちゃうの?」
「芽が黒っぽいと、虫に見えるっていう消費者がいるんだそうです」
そんなくだらない好みのせい白芽になるなんて。
「消費者の希望」というバナーは、味の視点からは要注意だとかねがね思っていたけれど、これもその例だ。採算重視の企業は「消費者が望むから」をいい理由に、安い材料にシフトする。
小さな店は、資金も少ない。高橋納豆が廃業する理由には、大手との競争に太刀打ち困難になったこともあるようだし、もうひとつは食品衛生法の基準がやかましくなって、対応できないこともある。新宿区はなかでもきびしいとか。床や壁の素材、蒸し釜はステンレス製、入り口に足下を洗浄する設備や側溝設置等々。小さな町の店にはこれだけの投資をする余裕はない。新銀行東京こそ、困ってる小企業に低利の融資をすればいいのに。
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