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「いい塩をつくりたい」
〈6〉



前回のあらすじ
一九七七年の夏、幸信は、谷氏考案の「タワー式製塩法」の研究実験を谷氏と二人だけで続けていたが、谷氏は沖縄での作業に限界を感じ、伊豆大島で研究を続けることになった。幸信も強く誘われたが、家族のことを考えると沖縄を離れることができなかった。


谷氏の訃報に誓う
谷氏が沖縄から伊豆大島に移って四年後の一九八一年九月、日本食用塩研究会・大島研究所所長として自然塩の製塩と研究を続けていた谷氏から「『塩 いのちは海から』を出版したので送ります」という便りとともに一冊の本が突然届いた。

そこには、「運動の絡んだ研究はかなり骨の折れる仕事です。次々に難しい問題が降りかかってきて、苦しめられています」とあり、「本物を取り戻そう」という見出しで谷氏らの活動が
取り上げられている新聞記事の切抜きが添えられていた。

それから四年後の一九八五年、次に届いた知らせは、専売法の廃止を見届けることなく、四十八歳の若さで逝ってしまった谷氏の訃報であった。

幸信は、自然塩復活のため命を削ってまで戦った壮絶な死を悔やむと同時に、自分が本物の塩をつくるために研究を続け、世界中の人々に伝えていくことが、谷氏の恩に報い、自分の人生を賭けてなすべき使命であると、心に強く誓った。


本格的に研究実験をはじめる
谷氏の遺志を継ぐのは自分しかないと、家族を養うためにタイル工事店を経営しながら、読谷村で本格的に塩の研究実験を開始した。

本格的に塩工場を建てて塩づくりをするためには、まず工場を何処に建てるのかを決めなければならなかった。

沖縄本島の美しい海は、その頃すでにリゾート開発や農業汚染で汚染され始めていた。そのため、本島から離れて海が汚染されていない綺麗な海を探す必要があった。幸信は、塩工場建設場所選びのために、沖縄中の島の情報を集め、週末ごとに現地を視察して回った。

粟国島の工場見学者と幸信


粟国島との出会い
一九九四年、九人乗りの小さな飛行機は、那覇空港を飛び立ち、北西約六十キロの東シナ海に浮かぶ離島・粟国島を目指していた。島の上空にさしかかった瞬間、幸信は「ここだ!」と心の中で叫んだ。粟国島との出会いであった。

この島は、本島から近くにあるものの、ダイバーがたまに訪れるだけで、観光資源もないために、汚染もない自然のままの美しい島であった。

幸信は、塩工場建設の許可を村から得るために、自分の作った塩とにがりを持って毎週末に役場に通った。工場建設は村人の雇用を創出して過疎化対策になるというのも説得材料の一つであった。約五か月後、幸信の熱意が通じた。村長、そして村議会も塩工場建設を満場一致で可決してくれた。

ようやく工場建設の場所は決まったが、三十名の職人を抱える生業のタイル工事店は廃業しなければならない。

廃業することについては「これまで日本にも外国にも塩づくりをする人はいた、しかし、体のことを考えたいい塩を作ろうと思っている人は、まず自分しかいないであろう。タイル職人はいくらでもいるのだから、タイルはやめてもいいだろう」と心では決めていたが、難題は、家族を説得することであった。塩はまだ自由化になっておらず、塩で生活できる確信も保障もなかった。妻は当然のように大反対したが、幸信は「私がやらなければ、世界中の塩をいつまでも変えられない、あなたの役目は私を助けることではないのか」と言って反対する妻を押し切った。

当時、幸信には妻と五人の娘がいたが、幸信の情熱と強い決意とに家族は同意するしないの余地もなく、結局、一人で粟国島に移住することにした。


粟国食用海塩研究所を設立
一九九四年九月、粟国食用海塩研究所を設立した。そして、十メートルの高さに穴あきブロックを積み上げた立体式タワーと、塩を焚くための塩釜一基、天日塩を乾燥させるためのガラス張りの天日ハウス三棟を一年かけて完成させた。時に、幸信五十七歳であった。

幸信は手先が器用で腕のよいタイル職人であり、病弱だった体もその頃には健康になり体力にも自信があった。工場の設計はもとより、ブロックやレンガ積み、タイル貼りの建設工事も自分でやった。タワーの中には、一万六千本余の細い枝つきの竹を繋ぎ合わせて逆さに上から吊るされている。この竹に海水を上から流して太陽熱と風で水分を徐々に飛ばしてかん水を作るためである。これは、昔あった枝条架式をヒントに幸信が考案したもので、この竹を吊るす作業も幸信ひとりで行った。
(取材・構成/本誌編集部)


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