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「いい塩をつくりたい」
〈7〉



前回のあらすじ
目標半ばで逝った恩師、谷氏の遺志を継ぐ気持で本格的に塩の研究実験を開始した。初めに工場を建てる場所を探した。すでに沖縄本島は汚染が始まっていたので、多くの離島を探して回った。そして塩づくりに適し、美しい海に囲まれた粟国島と出会った。

一九九四年九月、生業のタイル工事店を廃業し、単身で島に渡り、工場の建設を開始し、立体式タワーと塩を焚くための施設と天日塩を乾燥させるための施設などを一年かけて完成させた。

「粟国の塩」が完成
工場が完成すると、すぐに塩づくりを開始した。しかし、中々満足できる塩はできなかった。そんな塩は、すべて再び海に返した。その繰り返しが続いた。研究を始めて二十一年目の一九九五年、少しずつ満足いく塩が出来るようになった。そして、ついに自分が目指した塩が完成し、それに「粟国の塩」と名づけた。しかし、満足した塩は出来たが、これを一般に販売することは塩専売法で出来なかった。会員を募っての販売だけは許されていたが、それだけでは工場を運営するのは不可能であった。工場運営のため、友人、知人から出資してもらい、沖縄県、粟国村からも補助金が出たが、会員の販売だけでは、やはり経営は厳しかった。しかし、やると決心した以上そこであきらめるわけにはいかなかった。

一九九七年四月、待ちに待った塩専売制度が廃止され、塩の製造販売が自由化された。社名を「株式会社沖縄海塩研究所」に変更し、気持ちも新たに塩づくりにまい進することになった。

幸信の塩作り
《海水に含まれているミネラル分をいかにバランスよく、出来た塩に馴染ませて残すか》幸信がよい塩をつくるために一番大切にしていることである。そのため工場の施設は、すべてがそのために造られた。綺麗な海水があること、太陽の力を最大限に利用できること、風の通り道であることなど工場の立地条件も同じことであった。

海水を海から吸い上げ、濃縮させて、かん水を作る施設が、高さ約十メートルの立体式塩田タワーである。風が吹き抜けるよう無数の穴が開くようにブロックを積んで作られている。天井は太陽の光が入るように開き、タワーの中には天井から約一万六千本の枝つきの竹が逆さに吊るされている。竹を使うのは自然の素材で、機能性にも優れているからだ。化学素材を使うと自然でないものが海水に溶けこむ心配があるからでもある。

さんご礁の沖からホースで海水を引き、唯一の電動といえるポンプでタワーの上まで海水を汲み上げ、そこから海水を噴射させると、海水は竹枝を伝い無数の滴となって落ち、また竹枝に当たってはじけ落ちる。その間に太陽熱と、タワーを吹き抜ける風で水分を蒸発させ海水を濃縮する。これを五日から一週間ほど循環させると、海水濃度六倍のかん水が出来る。

塩の釜炊きをする幸信


天日塩と釜炊塩
ここからは、天日塩か釜炊塩かによって工程が分かれる。天日塩は、出来たかん水を強化ガラス製の温室で乾燥させる。窓の開閉で温度調節をしながら、一日に朝と晩二回攪拌する。そうしないと塩の粒子が大きくなり過ぎるからだ。好天と風に恵まれれば約三週間で天日塩は出来上がる。冬場は気温が低いので二か月かかることもある。

一方、釜炊塩は、二メートル四方もある大きな鉄製の平釜で二〜三十時間、薪を使って丁寧にかん水を煮詰めていく。薪を使うのは遠赤外線の効果でまろやかに煮詰まるからだ。はじめに五時間ほど煮詰めると硫酸カルシウムが結晶し始めるので焦げないように十五分ごとに注意深くかき混ぜる。そして固まった余分な成分を丁寧に取り除く。

職人の技と勘
《海水のミネラルを出来た塩にいかにバランスよく馴染ませて残すか》は、長年養われてきた職人の技と勘が欠かせない。海水の濃度、薪の増減による火加減、撹拌のタイミングを見てゆっくり自然に水分を蒸発させていく。塩作りで一番大切な作業である。火加減と撹拌の仕方次第でミネラル分が減り過ぎてしまうことがあるからだ。

長時間の作業になるので従業員と交替で行うが、職人の技と勘が必要な作業は幸信自身で行う。そのため徹夜作業になることも度々である。かん水を煮詰めて水分を蒸発させると釜には塩とニガリが残る。これを簀をしいた脱水槽に移し、四、五日かけてニガリを程よく抜く、抜きすぎても駄目で、この加減も職人の勘を働かす作業だ。

最後にふるいにかけて二日ほど自然乾燥させ、細かいゴミなどを取り除いて、「粟国の塩」は出来上がる。

(取材・構成/本誌編集部)


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