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七月はじめの午後。
「もしもし?」電話に応えるアミの声が急にはずんだ。「そのお声はもしや〈うそつきカモメ〉ではいらっしゃいませんか?」私は聞き耳をたてた。 
「金森千栄子さんから」アミが電話をさしだし「いーえ、金森ミッキーでございますって!」
電話の向こうで、声が言った。「この土曜日、私のホテルで朝食をご一緒にいかがですか? アミちゃんとお二人で」

私はふたつ返事で、早い食事の約束をした。ふだんなら土曜はお寝坊の日。朝食は九時半か十時だ。彼女の泊まる銀座、並木通りのホテル・コムズの朝食には、遅くも九時にはいらないと!

ミッキーマウス、金森千栄子さん。この名を知らない人は、金沢はもちろん、メディアの世界ではいない。〈うそつきカモメ〉はうちのひそかなニックネームで、あるパーティのスピーチで彼女が子供時代の自分をそう呼んだから。ユニークなキャラクターのこの女性は、知識の豊富さと話術の巧みさと眼力の確かさで、ずば抜けている。
金森ミッキーこと、千栄子嬢の誘いを断るひとはいない。それには隠された意味があるからだ。数日後、地下一階の朝の食堂に私たちは座った。

ホテルの朝食は、子供時代から大好きだった。富士屋ホテル、富士ビュウホテル、金谷ホテル。食堂の広い窓、真っ白いテーブルクロスに大きなナプキン、うやうやしく運ばれてくる半熟卵やベーコン。

自分で各地のホテルに泊まるようになると、どのホテルの朝食が好きか比べるのが楽しかった。朝の食堂よりルームサーヴィスがラク、と好みも変化していった。リーガロイヤル京都のメンバーズクラブの朝食も気にいった。 客間風のしつらえの部屋で、パン、サラダ、飲み物をくつろいでとる仕組み。

でも東京のホテルの朝を、東京人は知らない。東京でホテルに泊まったのはたった二度。海外旅行まえ急ぎの本の仕上げで、八〇年代に東京ヒルトン(一九八四年からキャピトル東急になる)に、そして関口のフォー・シーズンズのお試し泊まりだけだ。

コムズの朝食レストランは、入り口に赤い猫と黒い犬の置物がちょこんと座っていて〈キャッツ&ドッグス〉という名。七時から十時までのビュフェスタイル。
お皿を片手に何をとろうか、サラダバー風の壁際のテーブルを眺めた。どの盛り皿にも野菜がいっぱい。丸まる皮ごと焼いた玉ねぎ。珍しい! オーヴンで焼くのに四十分かかるおいしさを知っているから、真っ先にお皿に。

定番のソーセージやコロッケやスクランブルドエッグもある。いちだんと目立つのはおいしそうな野菜の顔、顔。ズッキーニ、ワケギ、ナス、カブ、豆、キノコ類。それらがラタトゥイユ風から単独の炒め物、生、茹でたのなど、同じ野菜でも料理法がさまざまで、スカーフひとつで様子が変わるおしゃれ上手の女みたいに、存在を主張している。

「お野菜が多いわね!」アミがよろこんだ。
「目移りしちゃう」と私。ふだんならビュフェは面倒と敬遠の私たちが、目キラキラで見回した。
「朝からスープとカレーがある!」アミがアイランドに引き寄せられた。深鍋でスープがグツグツ煮えている。覗くと味だしのチキンが丸まる一羽はいっている。脇のテーブルにはパスタとカレー。朝しっかり食べて、ランチスキップ? 忙しい旅行者によろこばれそう。
「スープとったわ」アミはカップを示し「おねぎとご飯があるといいな、と思ったら、ちゃんと傍においてあるの」とにんまり。

別のコーナーには生野菜がズラーリ。ここはお鍋が湯気をあげていて、好きに自分で茹でることができる! アミはアシタバを茹でた。その反対側にも生野菜の数々。丸ごとのキュウリやレタス、エシャレット、水菜…。そしてこれらオーガニック野菜の生産者の名前と顔写真が添えてある。

最後のカウンターに果物とジュース。フレッシュフルーツは好みに自分でジューサーにかけられる。
「なんてすてきな朝ご飯!」私たちは声を上げた。「こんなところ見たことない!」

野菜スキーにうれしい朝ご飯


衝撃的な都会の小さなホテルの朝食だった。金森千栄子さんのお見通しどおりだ。常識を捨てたところに、このユニークなレストランが生まれたのだろう。部屋を出しなに「身体にやさしい朝食バイキング」という、シェフ矢吹淳男さんのメッセージが入り口に掲げてあるのに気づいた。

野菜を好きに食べることは、普通、自分のうちでしかできない。旅先では、野菜やーい! になるのが私たちの悩み。それをみごとに解決したうえ、人々に野菜のおいしさを立体的に教えているのが、ここの朝食だ。欲を言えばナイフがほしい。フォーク、スプーン、お箸、バターナイフだけでは、うまくモノが切れない。

レストランがしまってからシェフ矢吹敦男さんに話しをきいた。福島出身でフランス料理の修業をしたひとの日本的な野菜レストランの謎解きである。
「母が十五、六年まえ病に倒れて、それがきっかけで料理のイメージが変わりました。昔からの食材を提供したいと思ったんです」価値観が変わったのだ。

福島産のほか、高知や大分からも知り合い農家の有機野菜、減農薬野菜を取り寄せて使っている。有機野菜は有機土壌とよい水の産物だ。彼は土と水が本来持つ力を知っている。

「うちの違いは水です!」彼は言いきった。水が野菜や魚の味をよくする。「日本人は豆をあまりたべませんが、私は豆は水に浸して塩ゆでにして出します。泊まり客は四十代、五十代の方が多いんです。うちで食べて、発見してくださるんですよ。野菜は、きざんで食べるものと思っていたら、ここで生で、丸のままおいしく食べられる、って発見なんです」

DISCOVERY野菜のレストラン、そして金森さんのいう「ここに楽園があった」。外からも食べに行かれるから、夏の朝、試すのはいかが?

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