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王室華やかだった十九世紀までは、王室の晩餐会は市民から期待されていたらしい。「招かれて名誉」だけでなく、贅沢で豪華な食事への期待である。『ハプスブルグ家の食卓』を読むと、晩餐会嫌いの皇帝は開く回数が少なく、不人気だったらしい。

『ジェイン・オースティン料理読本』には、十八世紀、ジョージ王朝末期には、資産家の家に、地元の人々が招かれなくても集まって食卓を囲んだ習慣が描かれている。大テーブルには山のようなご馳走を並べ、線対称になるように置く、 ローストビーフの対岸にはターキー、という風に。 ワイン、ビール、エールも飲み放題。女主人の苦心はたいへんだった。

モノが豊かでなかった時代、そして庶民が栄養のある食事をとれなかった時代には「よその食事に預かれる」のは、大歓迎だったことがわかる。私も思い出してみると、貧しい留学生時代、NYで一か月ほど暮したとき、友達の家にディナーに呼ばれると「一食たすかる!」とうれしかったものだ。

二十世紀にはいると先進国の食の習慣は大きく変わった。 さらにゆたかになった今日、美食の人口は増えている。 シンプルな暮しをしつつ「自分のメガネにかなったモノだけを食べる」食べ好きの数はバカにならない。食のスタンダードが上がったのだ。
それだけに、人を招く、招かれる――には頭脳とテクニックと想像力がいる。

「子供のときって、およばれってうれしかったわ」
アミが言う。
「そりゃそうよ。子供はヒマ、遊ぶだけ。仕事や義理にしばられないもの」と私。
「ママって、およばれ嫌いね」
「場合によるのよ、好きに帰れない招待がイヤなの、社交好きじゃないのね」

そうなのだ。およばれは、ハプスブルグじゃあるまいし、自由意志で招き、招かれる。食事なら、一定時間かけて料理と会話を楽しんだあと、適宜、失礼するもの。でもあるとき、あまり親しくない女性に女五人ほどで自宅のランチに招かれ、時がきて失礼するわ、と言ったら「どうして帰るの? もっといらしてよ!」とくり返し、つよく言われて困惑した。帰るのは非礼だと言わんばかり。

それは都内でなく、クルマで二時間かかる不便な場所。十一時に行って、おうちを拝見、食事もおしゃべりも楽しめば、もう四時、引き上げなければ帰りの道中が混む。ホステスだって片付けがある。 およばれのハッピーな仕上げは、快い別れだ。 

ハロー! バイバイ! 気楽がいちばん


招いたら、自分が満足するまでステイすべき、と思ってるホスト、ホステスは王族の驕りじゃないか? 私は、うちのパーティに友達が「時間をさいて来てくれる」のをありがたいと思っているから、お客の自由を尊重する。

ひとがレストランの会食を好むのは、終われば切りよく帰れることもあるのじゃないか。もし長びいても、昼、夜とも店には閉める時間がある、これが救い。
しかしここで、想像力の問題が出てくる。もしあなたが人を招いて、来てもらい、ご馳走し、お礼を言って、じゃサヨナラ、でいいのかどうか?

親しい同士が誘いあい、みながめいめい払いする会食なら、道中もそれぞれの裁量のうち。でも、世話になった人や遠来の友を、こちらから招いたときは、往復の便まで考えなくちゃ――ということだ。

私は何度か、やや仕事めいた会食に招かれた経験から、これを学んだ。いちどは「帰りのクルマをご用意します」と先方が言わなかったため、苦労してパーキングを調べ、往復をセルフドライヴし、ワインも割愛。別のときは「お酒を飲むつもりできてください」と注文され、往復のタクシーで約一万円。いい教訓になった。

人をお礼に「招く」場合、お迎えに行く、あるいはタクシー券の用意は、must itemである。
招かれたほうは面倒でも「来てくれる」ことを、忘れちゃいけない。

しかし、クルマで 一時間かかるところでも、うれしい招待もある。時折ここに登場するニックネーム「ホラフキ男爵」が、横浜のアパートメントに五人ほどをランチに招いたときだ。彼は料理上手で、フカヒレを姿煮にしたて、アミと私、開新堂五代目の道子さんと夫、丸梅の女将さんという、うち以外は、錚々たる料理の達人をよんだ。これが大好評。

「すごい、どうやってフカヒレなんて作れたの」
「料理人はみなさん遠慮して招んで下さらないから、とてもうれしいわ」
この招待の仕上げは、楽しんだあと、気軽にさよならしたこと。「もっといてよ」なんてひと言もなく「ご馳走さま」「楽しかった」と気軽にバイバイ。これがほんとうだ。この会食はいまも話題になるヒット・イヴェントで、どうせ人を招くならよろこばれるやり方をする、ステキな見本である。

気軽な誘い方が、かしこい招き方の基本。そして、少し早めに失礼するというお客には、すなおに応じること。「もう少しいて」「終わりに楽しいことが用意してある」なんて言葉は呑みこもう。相手を居心地わるくさせるだけだもの。

招かれるほうは、ハムレットのマネじゃないが、「行くか、行くまいか」to go, or not to go, that is the questionを自問しているのだから、招くほうは、その辺を想像しなくちゃ。だから私はうちでパーティをするとき、誘い方に気を使う。大勢のビュフェのときは、出欠の返事を強制しない。

「こられればうれしいわ。でもムリしないで」そして「行かれない、ごめん!」という返事には「気にしないで、友達同士なんだから」と。
集まりで大事なのは、楽しさと居心地よさだ。それは、招待に対して「行く、行かない」の選択の自由があるか? 好きなときに帰れるか? 面白く楽しい人たちが来るか?――がベースだ。

「でも、およばれ好きの人も大事よ」私はアミに
言った。「招けば必ずくる社交好きな人で集まりは賑わうから。時間気にせず楽しんでくれる人の存在意義ってそれなのね」

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