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「世界の人々に健康な食を」
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前回のあらすじ
塩の研究を始めて二十一年目の一九九四年、ついに幸信の目指した塩が完成した。幸信はその塩に「粟国の塩」と名付けた。しかし、当時日本では専売法により一般に塩を販売することが出来なかった。会員を募っての販売は許されていたが、それだけでは工場運営は不可能だった。一九九七年四月、塩専売制度の廃止により、待ちに待った塩の製造販売が自由化された。幸信は知人などに出資を頼み、社名も「株式会社 沖縄海塩研究所」と改め本格的に塩づくりをスタートさせた。

創業十年目、更なる夢にむけて
塩の販売が自由化されると、専売の塩以外に様々な塩がつくられ、スーパーやデパートの食品売り場に溢れるようになった。「粟国の塩」は、幸信の塩づくりをメディアが取り上げてくれたことも追い風になり販売は順調であったが、手作りのため生産量に限界があり、生産が追いつかないほどであった。

塩づくりは順調であったが、粟国の塩の完成から十年目、幸信は次のステップを模索していた。それは塩をつくることが最終目的ではなく、もう一つの夢があった。幸信が塩づくりをはじめたとき、研究を共にした三人の学者の「世界の塩を健康な良い塩に変える」という共通の目標を実現することであった。

タイミングよく、スローフード発祥の地イタリアで開かれる「スローフード世界会議」に参加しないかという願ってもない誘いが舞い込んできた。

塩こそスローフードの原点だと考えていた幸信は、渡りに船と即座に参加を決めた。それは、世界百三十か国から五千人以上の食の代表が参加し、世界中が直面する様々な食の問題について話し合う場であった。幸信も「塩と健康」について講演した。さらに世界の人々に幸信が作った塩も試食してもらい、人種の異なる多くの人々からの様々な反応が、世界中に健康に良い塩を届けることの大切さを確信させた。これをきっかけとして幸信の世界へのアプローチは精力的に続いている。

イタリアスローフード世界会議会場にて


塩・食・環境・教育を考える
二○○五年二月、幸信は、創業十周年の記念事業として「塩・食・環境・教育」をテーマに「スローフードを考えるシンポジウム」を粟国島で開催した。参加者は、食環境ジャーナリストの金丸弘美さんはじめ、スローフード協会関係者、有機栽培農家、料理研究家、イタリア領事館員など県内外から参加者は二百七十人を越えた。声優・エッセイスト平野 文さんが司会を引き受けてくれた。出席者の多くは「粟国の塩」のファンであった。パネルディスカッションでは、遺伝子組み換え食品、化学肥料・農薬散布、食品添加物、インスタント食品、狂牛病、鳥インフルエンザ、食育、自然治癒力などのテーマで熱い討論が行われた。このシンポジウムを主催した幸信は、食についての日ごろの思いを熱く語った。「確かに有機栽培など安全で美味しい食品はどうしても高価になってしまうが、近年、驚くほど増加している医療費や携帯電話料金などを少しでも減らして食費への支出を増やす努力をすることです。また、安全で美味しい食品は、心も体も元気にしてくれ、人間本来の治癒力がつき病気に強い体にしてくれます。結果として治療費の削減にもつながるのです」。

さらに「手作りの料理で家族と一緒に食卓を囲めば、食事の楽しさ、美味しさを子どもたちに教えることが出来ます。味覚は小さい頃に発達するといわれています。子どものときに食べた美味しいものの味は、しっかり記憶に残っているものです。様々な食材を使ったバランスのよい美味しい料理を食べることは、精神を安定させるといいます。甘い、辛い、しょっぱい、苦いという感覚は脳に刺激を与えます。食育ということがクローズアップされていますが、今話題になっているキレる子、引きこもる子の対策にもなると思います。われわれ大人は、自分の意思で食べるものを選ぶことが出来ますが、子どもたちはそういうわけには行きません。次世代を担う子どもたちのために有効な食育を考えて欲しいと思います」。

当日はあいにくの天候で海は大荒れ、那覇からのフェリーは欠航になり、急遽飛行機がチャーターされた。島民をはじめとする多くのボランティアにより島野菜、島の伊勢えびや魚を使ったご馳走が用意され、沖縄琉踊、エイサー、三線、島唄が会を盛り上げた。「自然の恵みを与えてくれる母なる大地にこれ以上負担をかけることを止め、今こそ食を正常な状態に戻すときである」と幸信は大会を結んだ。

(取材・構成/本誌編集部)


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