寒かった二月、食について書きたい二つのことがあった。一つは「並木の薮」、一つは「食べログ」である。
コートの襟をたて、ふり仰いだ街路樹に、花芽がかすかにふくらんでいる。「並木の薮」の前。
「あら、何の木かしら?」
「コブシなんですよ」お店のまえを掃除していた女性の従業員が言った。
「そうね、いつも来るの暮れか夏まえだから、花を見たことがなかったんだわ」
まだ暖簾が出るまえ。アミとふたり、混み出すまえにと、はやばやと来たところ。というのも、ここは建物が古くなったため建て替えをするため、二月いっぱいで休業し十一月に再開するまで、食べられない。仮店舗で無理して営業しないいさぎよさが、浅草っ子らしい。
並木の薮。私とアミの大好きなお蕎麦屋さん。一九一三年に浅草並木町に先代のお父さんが店を開いたので、いまも「並木の薮」と名乗っている、支店も出さずただ一軒でやる個人のお店。このせちがらい世の中で個人が代々店を構えてやっていくのは、なかなかのこと。ずっと続いてほしいお店だ。
贔屓の店は誰にでもある。食べ物については、スマートフォンの無料アプリの「食ベログ」が人気だそうだ。でも私は、赤の他人の感想でなく、私自身の味覚と好みを信じるひとり。
家で文章を書く職業だから、二十四インチのiMacですべて事足りる。iPhone 4 は最近買ったけれど、外出してもwifiのあるスターバックスやマクドナルドに入らず、ひたすら「おうちスキー」で家に帰って食べる。「食ベログ」は不要。外で使うのはメールのやりとり、スピーディな写真撮影、ニュースなど。
でも世のなか自分の舌を信用せず、マスメディアに左右される人が多いのは、私の姉を見てもわかる。毎年、私が世話役で親類の新年会をする銀座のペリニィヨンは、味とサーヴィスの両方で最高なのに、そこが去年の暮れ、DCカードのPR誌に出たとたんにベタ褒め。私よりメディアが上か、とがっかりした。
その点、私のまわりの蕎麦贔屓は、案外ましかもしれない。なぜならお蕎麦となるとみんな自信満々自分の店こそベストと信じて、うるさいこと。TV局の友人に「ぼくは麹町の三城。行きなさいよ」とせっつかれて試したが、ハイヤー族の男客でノー。十年以上前のことだ。でも自分を信じることは、食べ物についてはベストだと思う。自分の時間、お金、なによりも自分の舌の満足が基本なのだもの。
私たちにとっては、並木の薮はかけがえのない存在。明日は薮に行くと決めると「何を食べる?」と相談が始まる。二月の薮はもう天ざる、と決めていた。去年の十二月には季節柄、鴨南だったから。
その日は、私たちのあとにも、ほかの客が現れた。みんな思いは同じ、食べ納め、そして混むまえに――なのだろう。暖簾が出され、戸が開いた。私たちは一番先のお客。
「いらっしゃいませ!」白い制服の店員が目を輝かせて迎えてくれる。最近の気に入りの席は、いちばん奥の、樽酒の前のテーブル。ここだと、すぐ後ろの台所がよく見えるし、お帳場も視野のうち。以前は入れ込みのお座敷が好みだったが。
黒い玉石を埋めこんだ床に、あかあかと円筒形のストーヴが燃えて、ほどよい室温。赤い火まで期待感を盛り上げる。
「天ざると、お代わりにざるを」と注文し、壁のお品書きを眺めた。半紙縦はんぶんほどの大ぶりの短冊に、墨であざやかに一品ずつ「ざるそば 七百円」「のりかけ 八百五十円」「天ざるそば 千七百円」「板わさ 七百円」などとある。いい字だ。
「このお品書きはどなたが?」アミが最初のお盆を持ってきた店員に訊いた。「おかみさんです」
この店がすばらしいのは、出すタイミングのよさだ。席につくとすぐ、お盆に載った蕎麦味噌とお茶碗、そしてそば湯が運ばれた。外の寒さからはいってのそば湯と蕎麦味噌の味わいがうれしい。
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