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「粟国の塩」の工場がある粟国島は、沖縄本島の那覇市から北西約六十キロに位置し、周囲は十二・八キロ、人口約八百人の小さな島です。開発が進んでいない粟国島にはまだまだ古い沖縄の風習が残されています。最近、島で弔いが行われましたのでその様子をご紹介したいと思います。


粟国島の弔いは沖縄の中でもとても独特なものです。まず粟国島にはお寺がありません。そのため弔いにお寺のお坊さんが来てお経を唱えることがありません。粟国島には琉球時代の風習が今なお色濃く残っており、人が亡くなるとノロと呼ばれる神に仕え、神々と交信できるという祈りを司る年配の女性が来て、祭文や神様への報告を唱えます。それは仏教のお経や神道の祝詞とは違うものです。現在、粟国島には八人のノロがいて、普段は農業などを行っているそうです。

野辺送りは、列の先頭の人が半紙で作られた飾り花を持ち、祭文が書かれた白いのぼりが続き、飾り花のそばには天国への道を迷わないようにと本人が履いていた履物が置かれ、棺が出ます。棺の後に喪主がつき絶叫で号泣します。親戚や近隣の人たちも泣き崩れんばかりの泣き声を上げ葬列に続きます。

墓に行く順路は決まっており、順路にある家々では亡くなった人の魂が入ってこないように、ススキ三本と桑の枝一本を束ねたサンと呼ばれる魔除と盛塩を門の左右に置きます。ススキや桑の葉は繁殖力が強いのでその生命力にあやかって昔から魔除として使われています。

棺が墓に着くと祈りが捧げられます。墓の前で祈りを捧げる人は亡くなった人の干支によって決められますが、年配の女性の役目です。またお墓の扉を開けるのは男性で、これも干支によって決められます。

現在の沖縄本島では、お寺で弔いを行い、火葬が一般的になりましたが、粟国島では、火葬することは人の魂まで焼き尽くされると考えられており、火葬せず棺のまま墓に納めます。それからなきがらが朽ちるのを待ちます。そして三年から七年後、良い日を選び家族・親戚が集り墓から骨を出して、真水で洗骨します。昔は骨を海まで運び洗骨したそうです。真水で清められた後、頭につばき油を塗って厨子甕(ズシガメ)という大きい骨壷に足の骨から順に、最後に頭蓋骨が納められます。この洗骨の風習は、家族の愛や一族の絆を深め永遠の魂を心に秘めることが出来る素晴らしい風習だと思います。

島の丘陵地帯には多くの墓がある

また年老いたご婦人が最愛の夫の朽ちた骨を洗い清め、頭蓋骨を抱きしめ慈しみながら骨を厨子甕に納める光景は、死者の魂の輪廻、先祖に対する畏敬の念など、さまざまなことを考えさせられ心を打つものです。

墓は一族のみが入る門中墓だけではなく、寄合墓といって墓掘りに参加した幾つかの一族が入る大きいものもあります。墓は島の南西の丘陵地帯にある凝灰岩の山肌をくりぬいて作られ、今ではコンクリートで固められ立派な扉がつけられています。中の広さは十坪〜二十坪、大きいもので五十坪以上のものもあると言われています。

昔、墓つくりは毎年雨季の時期に、門中を中心として共同作業で行われ、十五〜二十年という期間がかかりました。中には六十年以上かかった立派な墓もあったそうです。

本土はもとより沖縄本島でも弔いでは、会葬御礼の挨拶状とともに清め塩が配られますが、粟国島の弔いではあまり塩を使いません。それはノロが司る弔いだからでしょう。


古来、日本では、人の死を 「けがれ」と考えていました。「けがれ」は「気枯れ」から来ているとも言われています。つまり人が亡くなって悲しみのあまり「気」が「枯れてしまう」という状態のことだと思います。その「気」を元の状態に戻すために、けがれを清めるパワーがあると信じられていた塩が使われ「清め塩」となったということが考えられます。この古くからの風習が、塩を神聖なものとする神道に引き継がれて、弔いで清め塩が使われるようになったと思います。

一方、仏教では清め塩に対しては否定的なようです。仏教では生と死をひとつの世界として捉えているため死は「けがれ」ではないのです。

最近では、清め塩は仏教の教えに由来するものではないので廃止するべきという考えが浄土真宗の寺院ではあると聞きました。また他の仏教宗派でも清め塩を廃止しようという動きが増えてきているといいます。

亡くなった人をどうとらえるかは宗教により、また地域によっても様々ですが、粟国島では、人は永遠の魂を持ち、また生まれ変わり輪廻する神秘の存在と考えられています。



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