No.294







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●「何を食べたのか」を思い出すのに四苦八苦している。でもって「茗荷を食べ過ぎるからさ」と嗤われたりする。よくいわれる“茗荷と物忘れ”の関連は根も葉もないことだけど、一見どうでもいいような茗荷の子(花茗荷)の存在を、儂は軽く忘れ置くわけには行かない。(深く考えもせずに書いているのだけれど)アレ特有の香りには心揺さぶられる思いだ。刻み込む前に、すでにあの色と形がたまらなく愛苦しい。「お前ビョーキか」と人がいう。「そうかも」と頷く。

▲茗荷〜素麺と繋がるのがフツーと思うが、儂の場合、何故か冷たい蕎麦を思い浮かべてしまう。奇妙な条件反射である。旨い蕎麦なら薬味の葱も使わないのに、茗荷があればソレを小口切りにして山盛り用意したくなる。薬味にというよりはソレを蕎麦つゆに浸しながらムシャムシャと食い、かつズルズルと蕎麦を啜るといった按排だ。自ら茗荷好きを名乗る割には、白状すれば、いろんな食べ方を知ってるわけじゃない。ごく当たり前に茄子と一緒に汁の実にしたり、甘酢に漬けたり、酢めしに混ぜ込んで爽やかさを満喫するあたりが精々である。秋茄子といえば(今更 と思うのだが)「嫁に食わすな」のフレーズを活字で見る機会が多い。「身体を冷やすから」とか「単なる嫁いびりさ」など諸説あるけれど、最近「秋が茄子の成り止まり」説を知ってナルホドと合点した。

■ お店を覗けば、通年、一様に三個ずつパックされた茗荷が積まれていたりする。儂は「ケッ」という視線を投げて通過する。あんなもの(茗荷のこと)は庭の片隅でひっそりと勝手に芽吹いていりゃあイイんだ…という思いがあるからだ。茄子だって適当に成り止まればイイ。冬の茄子を儂は食べない。

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