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主君に忠義を尽くし仇打ちするという日本人が大好きな忠臣蔵。元禄十四年三月十四日に江戸城内松の廊下にて、赤穂藩主であった浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬りかかった事件を発端に、浅野内匠頭が即日に切腹を命じられ、赤穂藩はとりつぶしになってしまいます。しかし、一方の 吉良上野介に対しては、何のお咎めも科せられませんでした。

浅野家の家老の大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の藩士たちは、密に吉良上野介に対して仇討ちを計画し、元禄十五年十二月十四日雪の降りしきる未明に、大石内蔵助を先頭に四十七人の赤穂浪士が吉良氏邸に侵入、吉良氏の首を討ち取って主君の仇討を果すというのが主な筋書きです。


なぜこの事件が起こったのか? 忠臣蔵では、浅野匠頭が朝廷接待の儀礼を教えてもらうべき接待指南役の吉良上野介に賄賂を贈らなかったために意地悪されたとなっていますが、そのほかにも様々な動機説がいわれていて、そのひとつに塩が 動機になったという説があります。


塩は昔から人間が生きるために不可欠なもの、そして地域によってはとても希少なものでした。それだけに、「塩」は権力者にとっての重要な政争の具として利用されました。

日本はもとより、世界中で塩にまつわる争いは戦争から個人レベルまで切りがないようです。
戦国時代、駿河の今川義元は、海が無く塩を作ることができない甲斐の武田藩に対し「塩止め」をしました。一方、上杉謙信は「塩のない弱った武田と戦うのは武士道が廃る」と、宿敵・武田信玄に塩を送りました。これは後世に「敵に塩をおくる」という美談となって伝わっています。

その上杉藩は、古くから能登半島などで、「揚げ浜式」(海から海水を桶で汲み運び、砂地に撒き海水を蒸発させ、塩分濃度が濃くなった砂をかき寄せ、さらに海水で流したものを釜で煮詰めて結晶化する方法)による良質の塩を作り、甲斐や関東地方まで販売網をひろげていました。赤穂藩の最初の製塩法はこの揚げ浜式塩田法で行っており、そのノウハウは上杉・米沢藩から学んだと言われています。

東京都港区高輪にある泉岳寺。浅野長矩と赤穂義士の墓があり、参拝客がたえない。左は同寺にある大石内蔵助の銅像。


ところがその後、赤穂藩は潮の満ち干と、砂の毛細管現象を利用した「入浜式塩田法」を開発しました。この製塩法は「揚げ浜式塩田法」とは違って大幅に人手・労力が少なくでき、塩の品質もさらに向上させました。赤穂藩浅野家はその独自の塩作りで小藩ながら藩財政はとても豊かでした。

この高い評価を受けていた瀬戸内の赤穂の製塩法を自分の藩でも取り入れたいと、赤穂の製塩法を真似てみたものの、なかなか同じようなよい塩が出来ませんでした。


一方、吉良家も、所領地の三河で新たに土地を拓き製塩を始めることになり、事あるごとに、浅野家にそのノウハウを教えてくれるように頼みましたが、浅野家も赤穂で作る塩が藩の財政の多くを占めていたので、藩の掟だとして断り続けていました。

どうしても赤穂藩の製塩法を知りたい吉良家はスパイを赤穂藩にもぐりこませノウハウを盗もうとしますが、捕らえられてしまいノウハウは最後まで知ることが出来ませんでした。

吉良家は、やむをえず自力で製塩法を開発し、結果としては赤穂塩よりも上質な塩を産出するようになり、吉良家は大いに利を得て、赤穂は逆にその打撃を受ける結果となりました。さらに、秘伝とされていた赤穂の製塩法も裏では備前(現在の岡山県)だけには伝授していたという事実もあったのです。


これら塩にまつわる様々なできごとが、赤穂と吉良家の間にわだかまりを作ってしまったのです。吉良上野介はこのことを恨みに思い、浅野内匠頭に嫌がらせをしたのです。

忠臣蔵では吉良が一方的に悪者になっていますが、各々の領地での両者の評判は、吉良は堤を築いて水害を防いだり、用水を作り、塩田や新田を拓くなど名君の誉れ高く、一方の浅野は短気で出す物を惜しみ、溜め込む一方のけちであったとも言われています。

さらに、殿中事件後に、老中柳沢吉保は、塩の利権を獲得しており、吉良は柳沢吉保に利用されたのではないかという説もあります。また、幕府が塩の専売制を確立するため吉良を利用して赤穂の製塩技術を奪おうと計ったが、それを浅野が暴露しようと事件を起したという説もあるようです。

しかしながら、松の廊下の殺傷事件の動機については、事件後の調べで浅野内匠頭が何も話さなかったことから「永遠に謎」というのが正解のようです。



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