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「粟国の塩」の塩工場がある粟国島は、東シナ海に浮かぶ孤島で慶良間諸島や久米島のように周囲に隣接する島はありません。島に渡るためには那覇の泊港からフェリーで二時間、もしくは那覇空港から九人乗りの小型プロペラ機を利用して二十五分、この二種類の方法があります。しかし、天候が崩れると海上は時化、視界も悪くなる事からフェリーはもとより飛行機も欠航することが度々です。たった六十キロしか離れていない沖縄本島からもなかなか来難い場所です。
天候の条件により、多い時は月の半分フェリーが欠航する事もあり、台風などが接近した時には連続で一週間以上那覇との行き来は閉ざされてしまいます。いざという時のために役所にはお米など食料が備蓄されているほどです。

そのような孤島ですから不便に感じることも多いですが、不便だからこそ本島とは違った自然を満喫できることも沢山あります。本土から想像されると沖縄と言うだけで美しい海・サンゴ礁・清らかな風など南国のいいイメージを持たれている方も多いと思いますが、粟国島の手つかずの自然は沖縄本島ともまた違います。夏の夜に広がる天然のプラネタリウムはおなじみの星座が探せない程に無数の星が満天に輝き、くっきりと映し出された天の川はオーロラさえ想像させられます。

また昔のままの島の町並みも格別です。家々は石垣で囲まれており、防風林として植えられた福木が並木通りを作って晴れた日は青空とのコントラストは南国ならではの絶景です。普段の生活の中に感動的な情景がいくつもあり、それらは癒しとなっています。

数百年も続くという祭祀も年間を通し数多く行われており、それらを司る祝女(ノロ)達は神様と交信します。ちなみに祝女になる資格は神から与えられるものらしく、島の安全・五穀豊穣を祈願する特別な存在です。

その年中行事で最も大きなものが「マースヤー」です。旧暦の大晦日と正月(本年は一月二十二、三日)にかけて行われる行事で、過疎のこの島でもこの日ばかりは賑わいを見せます。新年を祝うため本島、本土から若者達が戻ってきて、島の人口は一気に倍増するからです。

旧暦の大晦日の夕方から、三線の音色と琉歌に合わせ、子供達が部落内を一軒一軒琉舞を踊って廻りその家の繁栄を祈願します。三、四曲踊ると、隣家に移り、空家の前でも律儀に踊ります。営業していないスナックの前でも踊ります。そうやって朝まで踊り続けます。

「マースヤー」とは「塩売り」という意味です。
昔、医者にかかることが出来なかったこの孤島において、塩は味付けとしての材料というより、薬用として貴重品であったのでしょう。つまり、海塩に含まれるにがり分は、怪我の傷口の殺菌に役立ち、夏場の暑さで放出したにがりの補給にも役立ちます。皮膚あれのとき海水につかることや、うがいのときに塩水を使うことも海塩によって、症状の改善が期待されるのです。その貴重な塩を売ってまわり、無病息災を祈願するのです。

また、すべてのものに神々が宿るこの島では、神事のみならず、生活の中においても、海塩は欠かせないものなのです。去り行く年に感謝を込め、来る年がすばらしい年になるよう祈願を込め海塩は使われます。粟国島の一年は海塩で始まり海塩で終わります。

島中が旧正月で盛り上がっているそんな日に、塩工場にとてもうれしい米国人の来訪者がありました。その人はセスナ機を自ら操縦して粟国島に来たのです。来島の理由は塩を買うためということでした。米国のニューヨークに在住の方で、ニューヨークで購入し使っている「粟国の塩」の工場を自分の目で見て、直接塩を購入したかったので、仕事で沖縄の嘉手納に来る機会を利用して粟国島に来たと話してくれました。今、アメリカは空前の健康ブーム、健康のためならどんな労も惜しまないということでしょう。塩作りの職人としてはとても励みになるうれしい話でした。
その方達は工場見学をし塩を購入して、またセスナ機を操縦して帰って行きました。

私が塩作りの研究に取り組み始めるきっかけとなった、世界中の人々を塩を通し健康に導きたいと言う思いが、確実に繋がっていることに感謝の気持ちを持つと共に、責任の大きさを実感した島の旧正月でした。


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