1970年初めといえば、ひと昔。その頃の旅といまとの違いは、アナログ コンピューター。東海道新幹線はあったけれど、高速道路は、やっと東名と名神がつながったばかり。旅の便利さは船にたとえたら、帆船と汽船のちがいぐらいの差だ。
旅の情報は、本と人からの情報、つまり口コミしかない。クルマ好きの私は、国土地理院の五万分の一地図、ときには二万五千分の一を頼りに近道を見つけてドライヴすることもしばしばだった。
それは秋たけなわの頃だった。金沢での講演の依頼に続いて、京都でふたつ仕事がはいった。
「これよ!」ぱっと閃いた。「金沢へクルマで行くの! 京都へ廻って紅葉のなかドライヴするの」
ちょうど友人から、鮮やかな紅のBMWを譲り受けたばかり。ドイツ車といえばVWばかりの時代だ。ベンツもBMWも少なかった。トライ、長距離ドライヴ!
思い立ったらワックワク。CARPE DIEMは私の人生の指針。ラテン語で「いまを楽しめ!」、紀元前一世紀、ホラティウスの詩の一節にある。
「じゃ、私も運転するわ!」秘書役のヨット部出の小一原映子も名乗りをあげた。アミはまだ幼い子供。女ふたりいれば、怖くない。私はたちまち、金沢―京都ををアタマの中の地図に思い描いた。途中に琵琶湖がある。あんな湖岸を走ったらステキだ。
「あ、想古亭って古い料理屋があるのよ」私は誰かの言葉を思い出した。「木之本で、琵琶湖のお魚を食べさせて、とても風情があるって」。
たちまち映子も賛成した。「すてきじゃない! 琵琶湖のへりって走ってみたかったの。講演が何時に終わるか確かめるわね」
四時半には出られそう、とわかって、想古亭源内の電話を調べ、金沢から寄るからと、夜の食事を三人前予約した。
いまなら、想古亭のウェブを開いて、場所もお料理もお座敷の様子まで、行くまえにわかる。その頃はカーナビもない。しかも若さの呑気さ、距離と時間を計算して案を練ることもせず、地図だけでケセラセラだ。
ところが、金沢を出るのが五時半になった。秋の暮れるのは早い。市内は渋滞、 国道八号は狭く、敦賀トンネルは天井と壁が迫り、大型トラックが巨象のように轟音をたててすれすれに走る。やっと湖北に出て、左に山が迫る暗い湖沿いの細い道を辿って想古亭に着いたのは、九時近かったろうか?
お店では遠来の客三人を気持ちよく待っていて、私たちはほっとした。鮒や鱒の珍しいお料理で、おいしかった。ご主人は「もう遅いからお泊まりになったらいかが?」と薦めてくれたが、京都のホテルを予約してあるからまた来ますと、先を急いだ。
アミが思い出して言う。「ゲゲゲの鬼太郎みたいにほんとに真っ暗な中行って、ポツンと灯りが一つだけあったのよ!」
「怖いもの知らずだったのね」と私。
「今ならiPhoneで、自分の居場所も道もわかるけど、ママたちの頼りは勘とヘッドライトだけ? ヨットで真っ暗な海行くみたいに?」
京都へは、湖西の国道から大津へ出て名神へ、そして京都東で降りたのだろう。当時は都ホテルだった。その後、京都にはクルマで年に何度も遊びに行くようになり、多い年は十回も。土地勘もできた。
|